第10話 帰還

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 城まで揺るがすような咆哮と轟音が、ぴたりと止まる。横たわるアンジェリカが呟いた。 「………あちらは、決着が付いたようだね」  薬瓶を手にしたオルフェーヴルが、暮れる窓の外を見る。紅い空が、静かに青くいつもの夕暮れへと変わっていく。 「二人は無事だろうか」 「………大丈夫さ。オルフェーヴル、私の出産費用と出産祝いと託児所の件、あいつらの俸給からがっつり天引きしておいて」 「任せてくれ。算術の腕が鳴るよ」  妻の手を握るオルフェーヴルが微笑む。 「流石は女大将じゃのう」  暖炉に火を入れて部屋を温め、湯と清潔な布、煮沸した鋏を用意して足元に座る入江姫が言う。 「………いいや、こんな緊急時なのに、役に立てなかった。騎士団長失格だね」  アンジェリカが唇を噛んでぽつりと呟く。 「否、あれは素晴らしい風であった。女大将殿、我はおぬしのような力強き術者をこの目で見たのは初めてぞ」  オルフェーヴルが微笑む。 「君はやれることをやったんだ。誇っていい」 「……ありがとうよ」  そんな彼女の額に脂汗が滲む。 「そろそろかな」  息を吐いて吸うのを、何度も、何度も繰り返す。部屋のドアが開き、静かに女王陛下が入ってくる。無言でオルフェーヴルの反対側に座ると、アンジェリカの手を握りしめる。 「力一杯握って」 「折れちまうよ」 「そのくらい平気よ。折るくらいの気合があった方がいいんじゃないかしら」  再び扉が開き、一人の老婆を連れたテオドールが入ってくる。 「ま、間に合いましたか。助産婦さんを、連れてきました」 「いいタイミングよ。これからはじまるわ」 「父もいます」  助産婦の老婆が言った。 「………この城で働くのは二度目でのう」 「一度目は?」 「わしがまだ駆け出しだったころじゃ。先王様のパレードのあった年じゃったな」  お湯で手を洗い、入江姫の隣に座り込む。 「理由はもう忘れてしもうたが、この城に勤めていた薬師の女性が、早産になってのう。早産だというのに大きく丈夫な子を無事に産み落としたことは、妙に覚えておるんじゃがな。何故かその薬箱を見て思い出したんじゃよ。……気丈に振る舞っておっても、出産とは一大事。双子となれば尚更じゃ。じゃが、気を楽にしなされ。女王陛下まで付き添いの出産とは豪華なことよ」  助産婦の前にまで薬箱が回され、車椅子に腰掛けたクロード医師が、御簾台の脇に待機する。 「避難所の医師達が戻ってくる。第一席と父上も」 「はい。それと……お師匠様達も、森から、きっと」 「………何かあったら呼びなさい」 「はい」  ロッテがいないのは、バルコニーだろう。夜の帳が降りてしまえば鳥の瞳では見たくても見られないものを待っているはずだ。ロビンがお湯を張った盥を持って部屋に入ろうとし、そっと言う。 「ロッテとベルモンテ君がバルコニーにいるよ。ロッテを励ましてやって。それと、しっかり休んでおくれよ。働きづめだろう?」 「だ、大丈夫です」 「………男の人は皆そう言うんだけど、私に言わせれば男の『大丈夫』は肝心なときに信用ならないからね。さあバルコニーで、ちょっとだけでも休んでおいで。お師匠様の帰りも気になっているんだろう?」  ロビンがテオドールをそっと抱き寄せて、すっかりくしゃくしゃになっている赤い髪を指先で梳いてやる。 「よく頑張ったよ。一晩ですっかり成長しちゃってさ。ああ、いつか坊ちゃんとこうやってお話し出来る日も、来なくなるのかな」  涙が出そうになるのを喉の奥でぐっと堪え、テオドールが言った。 「いいえ………いいえレディ・アーゼンベルガー。僕はあなたの家の、真っ白なテーブルクロスに刺繍をいれたいって思っていました。何故だか、自分でも、わからないけれど……」  バルコニーから微かに美しい琴の音が聞こえる。ベルモンテがロッテを慰めているのだろう。 「………その時まで待っているよ。糸車も修理したんだ。ああ、そうだ、久しぶりに私が紡ぐのも、悪くないね。いつか、糸を、取りに来てくれる?」 「はい。必ず。お約束します」  自分を抱き寄せてくれた優しい手を握りかえして、その手の甲に不器用に唇を寄せる。ほんの僅かに膏薬の匂いが残る、傷だらけだが美しい手。  自分がよく知っていて、まだ知らないはずの、色んな思いが入り乱れ、テオドールは脇目も振らずにバルコニーへと駆け出していった。
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