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閑散とした館に、寝台と机、そしてこの滋養豊かな森で暮らす最後の日々にふさわしい食べ物と、ランプだけが残っている。
庭や館の花々も可能な限り城の中庭に運ばせて、ただただ静かな部屋で、静かな夜を過ごす男が、窓に昇ってきた満月に何気なく視線を投げる。少し冷たい風が吹き、秋の訪れを耳に囁く。
ふと、微かに、森が何か楽しげにさざめく音がした気がして、ミーンフィールド卿は少し首を傾げてから立ち上がる。馬車の音が近づいてくる。丸で祝祭の日のパレードの馬の様な、軽やかな蹄の音。
(壮行試合は明日だが、もう迎えが来たのだろうか。それにしてはどうも妙だが)
階段を降りて、いつものドアを開ける。月光に照らされて、白い8頭立ての美しい馬車が、館の前でぴたりと止まる。
「ありがとう。素敵な『御者さん』。きちんと、間に合わせてくれて」
聞き覚えのある声が、馬車の中から聞こえる。日の暮れた森に突如現れた馬車の扉が開き、一人の女性が丸で小鳥の様に、地面へと降り立った。
「それでは、僕はこれで」
御者の声にも聞き覚えがある。
「………テオドール?」
それには答えず、帽子を深く被りなおして、御者が一礼し、馬車のドアを閉めてから馬に鞭をあて、くるり、と綺麗に馬達を回転させる。
「馬の扱い方を教えて下さって、ありがとうございました、お師匠様。お師匠様って呼ぶのも、今夜が最後になるかもしれないけれど!」
風の様に軽やかに、8頭立ての美しい馬車が走り去っていく。残された二人が、館の前で対峙する。
「私が、誰だかわかる?」
「………わからないとでも?」
ミーンフィールド卿が眉間に手を当てて、呟く。
「ファルコの、いや、ファルコだけじゃないな、エレーヌもか」
「ぎゃふんって言わせてやりたいそうよ、あなたを」
「………完全に油断をしていた。私ということが」
「嬉しいわ。心の準備なんかされちゃったら、入り込めないもの」
白く美しいドレスを纏った、銀の髪に赤い瞳、真っ白な肌の、だが闊達そのものの少女が、呟く。
「入り込めない?」
「あなたの心によ」
秋風に白いドレスが翻る。
「私、ちょっと怖かったのよ。こうして、あなたと、人間の姿で向かい合うのが。……『そうじゃない』って言われたら、どうしようかって思っていたわ」
そんな少女に、いつもの人差し指ではなく、腕を差し出して、ミーンフィールド卿が笑いを零す。
「そなただけは私を怖がらないと思っていたのだがね」
「顔の話じゃないわ。でも、あんな大怪我をして顔面血塗れで運ばれてきた時は、私、気絶するかと思ったのよ」
慣れない仕草で、そんなミーンフィールド卿の腕を取る。
「で、怪我の具合はどうなの?」
「私は『緑の魔法使い』ゆえに、多少は樹々からの恩恵が受けられる」
「……ああ、本当は朝まで人間でいられたら良かったのに。朝、一緒に散歩してみたかったのよ、この森を」
「いつか、叶うだろう」
「そうね」
月の光が、ただただ森の館を照らす。暮れた森の樹々と、月の明かりだけが、この秘密めいた二人の逢瀬を静かに見つめる。
「さあ、館へ。この森最後の夜に、そなたと共に過ごせるとは思ってもいなかった」
館のドアを開けて、静かに二人で階段を昇る。
「不思議な気分ね。この階段を、『歩いて』いるなんて」
「翼がないのは不便かね」
「いいえ、全然よ。もしも背中に翼があったら、こんなに素敵なドレスは着られなかったわ」
「成程、不思議なものだ」
いつも毎朝ロッテが訪れている部屋の前で、ミーンフィールド卿が足を止めて呟いた。
「………夜にそなたと過ごすのは、そういえば初めてだったな、ロッテ」
「そうね。日が暮れるまでに、お城に帰らないといけないから」
「今度は私が、朝になったら城に帰る番か」
二人が愉しげに笑う。大きな十字傷に、大きな口髭。ロッテが背伸びをして、嘴ではなく、そんな口髭に、唇でつつくように触れる。ミーンフィールド卿が眼帯を外し、左右で少し異なる緑の瞳で、ロッテの赤い瞳を覗き込む。
「レディ」
「何かしら」
「やはり、髭は剃っておくべきだったかな?」
珍しく卿が笑いながら、ロッテを静かに抱き上げる。
「いやよ。私、あなたの全部が好きなのよ。どこも、かしこも」
「成程、宜しい。私とて同じこと」
片手で、ドアを開ける。首に回されたロッテの白い手が、歓びと緊張で僅かに震える。
「心臓の音が聞こえるな」
「そろそろ、破裂してしまいそうよ」
「それは困るな。秋の夜は、まだ長いゆえに」
ミーンフィールド卿が、後ろ手で寝室のドアを静かに閉めた。
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