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目を覚ますとパンを焼く優しく愉しい匂いがする。近習のテオドールは意外にも早朝のこの仕込みが得意だった。刺繍の図案を考えながらパンを焼くとあっという間らしい。そろそろロッテが迎えに来る時間だ。
(懐かしい夢を見たな)
王と近習が永遠に眠る大天幕を焼き払う前に、ダリーズ卿の冷たくなった掌をそっとあの白い杖に添えてやったことを思い出す。
(帝国か)
ファルコが海の彼方から持ち帰ってきた種が芽吹きだしている。小さな小さな緑達が、若葉ならではの幼い声で卿に朝の挨拶を投げかけながら微かに揺れる。
「おはよう。今日は久々の登城だったな。帰りは少し遅くなるが、給水器に水を入れておこう」
懐かしい夢のせいか、寝台の上に腰掛けたまま、ミーンフィールド卿は大きく息を吐く。そして立ち上がり階段を降りてそっと外に出ると、庭の隅には菫の鉢植えがあった。
ほかの花々とは異なり、砂漠の色によく似た鉢に植えられた菫。地面だけを見つめるように咲く花が、静かに揺れて朝の挨拶をしてくれる。
砂漠の民は墓を持たないという。だが、彼なりの追悼であり、最も苦しかった遍歴の旅を忘れないための鉢植えである。
(ロッテには話しただろうか)
カールベルク城に行く途中の馬上で、ロッテやテオドールにも話すべきか。否、もっと楽しい話が良いだろう。朝食を食べながら考えることにしよう。ファルコとの道中は愉しいことが多かったが、その中に『レディや未成年にも聞かせられる』ラインナップがいくつあったろうか。
そんなことを考えながら、立ち上がって一息つくとミーンフィールド卿は、館の入口脇の橘の木の横を通り抜け、食堂へと静かに戻っていった。
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