第5話 銀の鎖と柳の木

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「少し遠回りになるが」  そう言ってやってきたのは、国境東の森だった。 「カールベルクの水源地だ。先日ちょうど道が完成したらしい。近くまでこうして馬で来れるようになった」  川沿いの道を、二人で馬で走る。 「水源地の『長老』に挨拶を」 「『長老』?」 「足場が濡れているから、滑って転ばないように」  馬を止めて、そっと近くの樹につなぎ、ミーンフィールド卿はテオドールを促した。促されるままについていくと、水場独特の湿った香りと森の深い香りが交じり合う。  柳の木々のしなやかな枝が音を立てながら揺れ、一歩歩く毎に水の香りが漂う。ミーンフィールド卿の住まう国境の森とは違う香りだ。樹や花だけでなく、森そのものにも「個性」があるなんて、今までは知らなかったことだ。  前を歩くミーンフィールド卿に視線を投げる。木々に挨拶するように時折視線を投げては、奥へ、奥へと進んでいく。木々や花が彼の周りで風もないのに揺れる。丸で「緑の魔法使い」でもある自分の師をうやうやしく案内している様だ。  昼の光と水と緑がタペストリーの様に織り成す、深い霧の様な香りが心地よい。思わず息を吸って、そっと吐く。 「ここがカールベルク城下の水源地だ」  目の前が開けて、湖が現れる。碧く透き通る美しい水。そして、大きな柳の木が、湖のほとりに聳える様に立っている。  枝の一本一本が太く、葉のひとつひとつが大きい。その枝葉の間から漏れる木漏れ日が、湖の表面を宝石のように照らしている。威容を誇るというよりはこの湖周辺の緑を静かに見守っているような、大きな柳の木に、ミーンフィールド卿は語りかける。 「お久しぶりです、長よ」  耳には聞こえない声、というものがあれば、こういったもののことだろう。自分には魔法の素養はないはずなのに、目に見えるものと、耳から入ってくる音の数々が混ざりあい、頭の中で低く響きあう。突如として重低音で鳴り響く角笛の音を頭の中へ直接流し込んだような、そんな感触に、思わずテオドールは足を止めて立ち尽くす。ミーンフィールド卿が、大柳と何か話しているようだが、何も聞き取れない。思わず隣の樹にもたれかかると、今度は少し小さな笛の様な音が耳に響く。 (木々の、声?)  『緑の魔法使い』であるミーンフィールド卿はきっと、こういった森の木々の声を日々聞き取り、会話することができるのだろう。思わず足元に咲いていた花に触ると、今度は、星を散りばめるような高い音が響く。これは、花の声なのだろう。 「あ、えっと、その………驚かしてごめんよ」  思わず声に出してそういうと、星を散りばめるような高い音が、柔らかい音に変わる。 「テオドール、何か聞こえるか」  ミーンフィールド卿が振り返る。 「は、はい。何て言ってるか、わからないけど………笛のような、星のような音が、いっぱい」  再び、低い角笛の音が響く。ミーンフィールド卿が、柳の木に再度振り返って言った。 「……我が近習でして。宜しければこの弟子に御身の枝を一振り、授けてやってはくれませんか。柳の文様は縁起が良いと聞いております。……ええ、刺繍の素養がありましてな。わずかながら、長、御身の声にもこうして反応しています故………」  低い角笛の音が、笑うように愉快そうに響く。ゆらり、と枝が揺れ、ぱきり、と音がして、枝が一振り、テオドールの掌の中に落ちてくる。。 「………城からのあまり喜ばしくない知らせですが、御耳に入れておいた方がよいかと思いまして。ええ、母は数年前に。……亡き母は言っておりました。異変を感じることがあったらまずは御身に相談せよ、と」  すると、枝がもう1本、今度はミーンフィールド卿の元へ落ちる。 「………そうですな。我が母の森に、供えておきましょう。それでは長、どうかご健勝で」  低い角笛の音のような声が、朗々と、だが、ほんの少しだけ寂しそうな音色で応える。この「寂しげな音色」をつい最近聞いた気がして、テオドールが眉を寄せる。 (ああ、あの夜の………)  大いなる魂の交合が、恋を阻むことがある、と語っていた吟遊詩人の奏でたあの異国の琴の音色である。  この樹ももしかして、まるで人の様に、誰かをかつて、愛していたのかもしれない。師匠の背中を見つめながら、テオドールはふと、この師の母が描いて遺したあの美しい画帳を思い出す。きっとどこかに、この柳の樹も描かれているのだろう。確信に近いそんな気持ちと共に、胸に詰まった何かが、すとんと落ちる不思議な感覚。  人も樹も鳥も、恋をするのだ。自分の生きる世界の中に息づく、丸で知らなかったもうひとつの美しく、そして心揺さぶられる世界。ああ、何故だろう、無性に針を動かしたい。そういった美しいものを自分の世界にも留めてみたい。突如胸の中で燃え上がった熱い何かを抑える様に、テオドールは、柳の枝を手に、水辺の爽やかな空気をもう一度、深く深く吸い込んだ。
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