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「……お父様は、全ての算術の方法をカールベルクの文官達に遺す為に、「国家算術の心得」って本をずっと書いてたんけれど、目が悪くて困っていてね。けど私は拾われっ子で算術も文字もちっとも得意じゃなかった。そこで、オルフェーヴルが口述筆記をしたんだ。宿代代わりにね」
入江姫が問いかける。
「国と、算術?」
「わかりやすく言うと、国用の家計簿さ」
「不思議なものよの。我が島ではそういったものはあったかどうか……ああ、我はもっと、己の住まう島のことを、知っておくべきであった」
少し恥じ入るように目を伏せる入江姫に、アンジェリカが笑いかける。
「お父様もオルフェーヴルも算術バカで帳簿の天才だけど、私はお父様に拾われるまで文字も数字も書けなかったせいで、未だに家計簿の一行だって大の苦手だよ。でもお姫様の島にもいつかあの本、持っていってやって。お米の……えっと、穀物の場合は『石高』の計算だっけ、そういうのに絶対役立つし、何よりあの世のお父様が喜ぶからさ。今度1冊持ってくるよ!」
「それは何ともありがたい。我が島もすぐに豊かになりそうじゃ」
「絶対になるさ、私が剣に誓ってもいい。あれはお父様とうちの旦那のオルフェーヴルが頑張って書いた、算術の結晶だからね」
「算術の、結晶……」
「……そう、真夜中までランプいっぱいつけてずっと書いてたんだ。夜遅くなりすぎると叱りにいったもんさ。まああれだよ、気の利く娘さんなら何か美味しいお茶なりコーヒーとか淹れてあげるんだろうけど」
「アンジェリカはお料理が得意じゃないものね。ファルコがあなたのお茶で悶絶してたのを思い出すわ」
「やっぱりあの阿呆鳥、一度城門からカーカー言うまで吊してやらなきゃ」
入江姫とベルモンテが思わず笑いを噛み殺して顔を見合わせる。
「そんな3人の生活。楽しかったよ。私も合間を縫って、オルフェーヴルの剣の修行に付き合ってやったわけだけど……。まあ毎回毎回この私の剣や魔法に吹き飛ばされてたわけだけど、気が付いたら、なんだろうね、あいつったら、この私を夜な夜なかき口説いてくるお馬鹿さんになってたってわけさ。その度に『私は私より強い男としか結婚しないつもりだからな』って言ったんだけど、さ」
思わずベルモンテが手元の琴を1弦、合いの手を入れる様に爪弾いた。
「『君はこの国で間違いなく最強の剣士だ。けれど僕は君より早く家計簿がつけられる。君のお父上の意思も継いでいくつもりだ。だから後は、君の次に強い騎士になってみせる。もし本当にそうなったら、結婚してくれ』」
ベルモンテが口笛を吹き、入江姫が黒い瞳を丸くする。
「そうさ。あのミーンフィールド卿から2本取るのは至難の業だけど、あいつは見事、やってのけたよ。今でも語り継がれるくらいの、互角の勝負だった。誰もが見惚れる御前試合でね」
「私もあんなに手に汗握ったのははじめてだったわ。ベルモンテ、貴方が見ていたらきっとレパートリーが一曲増えるような、そんな素晴らしい試合だったの。試合直後に、オルフェーヴルはあなたの前に跪いて求婚したのよね。ふふ、今でも覚えているわ。ジャコモ卿も、満足そうな顔をなさっていたわ。もちろん、ミーンフィールド卿も」
何となくその時の卿の表情が目に浮かぶようだ、とベルモンテは目を細める。何事においても妥協や手加減などは一切しないであろう彼を、誰かを一心に想う心と絶え間なく鍛えた実力で乗り越えていった、算術が得意で将来有望な若者。
「その場にいたら翌朝には10曲出来ていそうだよ」
愛と勇気、そしてそれだけではない言葉では言い尽くせない何か。希望に満ちた人々の物語がここにはある。それはどんな音楽よりも心地よいものだ。
臨月のアンジェリカでも食べやすいように、とサンドウィッチが運ばれてくる。
「パンというものは美味しいものじゃな」
「島で小麦は育つか試してみるのもいいかもしれない」
ベルモンテが姫の隣に腰掛けると言った。
「……希望に満ちた歌がここにはいっぱいある。そういったものも、小麦と一緒にいつか、運んで行けたらって思うんだ」
入江姫がベルモンテを見つめる。揺るぎない黒い瞳で、海のような真っ青な瞳の吟遊詩人に、言った。
「奇遇なことよ。そなたは我が舟。この世で唯一の歌う舟。……男達の勲に愛、希望に満ちた歌を我が故郷に持ち帰るには、やはりそなたの舟、そなたの歌でなければならぬ、と、我も今まさにそう考えておったところよ」
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