第6話 揺れる大地

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 井戸水の水が喉を潤す。朝焼いたパンに、たっぷりと蜂蜜を塗り、獲れたての果実を挟んだサンドウィッチのバスケットを差し出した。 「剣の稽古はどうかね」 「はい!なかなか1本取れないんですが、でも、いろんな事を教えて貰って」  ガエターノがひらっとそんなテオドールの腕の上に飛び移り、恭しくミーンフィールド卿に挨拶する。 「久しぶりだな、ガエターノ。貴殿の館の奥方殿、アンジェリカはご健勝かね」  小さなツバメが、もちろんですとも、と言わんばかりに胸を膨らませる。文字通りの「燕尾服」を着た小さな執事みたいだ、と思わずテオドールは微笑みを噛み殺す。 「少し休憩したら、再開しましょう」 「ああ、出世払いは大事だからね! それにしても、ああ、本当に、相変わらずここの館の食事は何でも美味しいんだよねえ……」 「何なら野菜を持っていくか」 「そうさせてもらうよ。あと、臨月の奥さんや生まれたての赤ちゃんが食べる食事って、どういうのがいいのかな。多分アンジェリカより僕の方がそういうのを作るのは向いてそうだから、今のうちに聞いておこうと思ってね」 「母が良い本を遺していったはずだ。城の薬師だったからな」 「助かるよ」 「出産前後の女性用の薬と新生児用の薬も煎じて瓶に詰めて一式箱に詰めてある。取ってこよう」  ミーンフィールド卿が立ち上がり、館へ戻りかけてはっと足を止める。 「……二人とも、建物から離れろ」  途端に、空気を切り裂くような音が響き渡る。はっと立ち上がったオルフェーブル卿につられるように立ち上がったテオドールの足元が、突如突き上げられるように強烈に揺れる。 「お師匠様!」 「落ち着け、地震だ。この館は頑丈だが、念のため壁から離れろ。しかし、おかしい、木々が悲鳴を上げている………」  カールベルクには地震が少ない。数十年に一度あるかないか、その程度のものである。丸でミルクを注ぐカップに入れられたように、地面がぐらり、ぐらりと回る。ミシリ、バキリ、とあちらこちらから不穏な音が響く。庭の植木鉢が次々に倒れ、厩舎の馬達が悲鳴を上げる。 「これは………」  燕のガエターノが細く高い、悲鳴のような声を上げて東の空を見上げる。遥か遠く東の空が、まだ昼間なのに恐ろしく紅い空に染まり、雷鳴が何度も何度も響く。 「……ガエターノ。急いでアンジェリカの所に行くんだ。館か、城だろう。僕は無事だ。すぐに帰ると伝えて。ミーンフィールド卿」 「待て、薬を持っていけ。アンジェリカは臨月だ。何が起きるかわからない。私達も後程城に向かう。焦らないように。街の様子はファルコの鳥達が調べてくるはずだ。これだけの大きな地震は私でも経験がない。損害の規模を算出しなければならなくなるだろう」  オルフェーブル卿が、ふと息を吐く。 「ありがとう、ゴードン。やれることをやるよ」 「名前で呼ばれるのは久々だな、オルフェ。そうだ、危急の時ほど落ち着けば大体のことは何とでもなる、と私はジャコモ卿に教わった」 「そうだったね。しかし、今の地震……」  二人の騎士が、何故か真っ赤に染まり、雷鳴を上げる遠い東の空を見上げる。 「……只事ではないだろう。この地震、『自然のものでもない』可能性がある。木々が皆恐れ怯えている。だが、今はやれることをやっていてくれ。城の開放と騎士団から救護班を設立することも考えておいてほしい。まずいことも起きている可能性があるが、不安を煽ってもいいことはない。テオドール、君の父君と母君に連絡を取るぞ。母君は郊外だと言っていたが、父君は」 「町の外科医です。馬を走らせますか、手紙にしますか」 「……一筆書こう。すぐに家に戻って、その後は城で落ち合おう」 「わかりました!」  立ち上がろうとして、思わずよろめく。 「一杯、水をゆっくりと飲むんだ。この揺れで酔ったのだろう」 「は、はい」 「近習がいて良かった。この事態、一人では対応しきれなかっただろう」  先程くみ上げた井戸の水を飲んで、息を大きく吐く。不自然に森がざわめいているのは、もうこの森が住処同然になっている自分でもわかる。そして、ふと井戸の底を見て、テオドールは声を上げる。 「お師匠様、水が、光ってます……」 「何だと」 「銀色に」  思わず眉間に手を伸ばしてから、ミーンフィールド卿は言った。 「オルフェ、皆に、変な色の水は使わないように、と伝えてくれ」 「了解。それとゴードン、あれはアルティスより遥か彼方、帝国の方の空だ。微かに見えるあの高い山が国境線だから、わかるんだけど」 「やはりそうか。良い予感はしないな。アンジェリカには無理矢理にでも薬一式を押し付けておくように。さもなければ全身甲冑とあの剣を取り出して来かねない。彼女も『風の魔法使い』だ。この異変には気づいているだろう。薬を取ってくる」 「僕、馬を準備してきます!」  やっと立ち上がれるようになったテオドールが厩舎へ駆け出し、ミーンフィールド卿が館へと踵を返す。 「二人ともありがとう」  ひらり、と肩の上のガエターノが頭の上を一周する。 「さあ、言っておいで僕達の燕、可愛い執事。アンジェリカに連絡を取ったら、ファルコのところに行くんだ。今の会話、彼にも伝えておくといい」  丸で弦から放たれた一本の矢の様に速く、ガエターノが一直線に飛び立っていく。オルフェーブル卿が息を吐いて、赤く染まる空を見る。 (帝国と、カールベルクの間には、僕の故郷がある)  皮肉なものだ。捨てたはずのものがこんなにも気になるとは。東の帝国とカールベルクの間には、自分の故郷アルティス国が広がっている。 「………大丈夫。何せ兄弟が33人。僕がいなくとも、なんとか家を守っているはず」  恩人の横顔が彫られたメダルを、無意識のうちに握りしめる。自分が自分であることを許された場所、自分に居場所を、誰よりも愛しい人をくれた小さな国。何が起きるのか魔法の素養のない自分には皆目見当がつかないが、銀色に染まった井戸水が、何か不穏なことをそんな自分にも予感させる。 「オルフェ、これが薬だ。面倒な事態が待ち構えている予感がするが、アンジェリカに伝えておいてくれ。私は面倒に慣れている、とな。私が到着するまで頼んだ」 「心強いよ。城は任せて。騎士団を招集する。城下の被害はファルコに報告させるよ」 「了解」  テオドールが連れてきた馬にひらりとまたがって薬を受け取ると、オルフェーブル卿は、深く息を吐いて、いつものように爽やかに笑う。 「城で会おう!」  そして、一気に森の中の街道を、駆け出して行った。
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