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#ある殺人とその合言葉
ある男は急いでいた。
往来する車のライトに照らされながら、行く道を急いでいた。
「やる……俺がやる」
使命を胸に抱え、焦燥に汗を浮かべ、与えられた重圧に時折息を詰まらせる。そんな男とすれ違った人々は、男の異常に気付いていただろうか。
答えは“ノー”だ。
男はよくいる中肉中背の、濃い灰をしたスーツに身を包んだ、単にカバンを強く抱え込んで帰宅の道を急ぐサラリーマンでしかなかった。その男が何をしようとしているかなんて、そのカバンの下に何を隠しているかなんて、誰も知りもしなかったはずだ。
いや、男も分かっていなかったのかもしれない。
男は追い詰められていた。
自らが今どこに居るのか、どこへ向かってどこを歩いているのか、周りではなにが起きているのか、それすら分からないほどに彼は追い詰められていたのだ。
だから、気がつかなかった。身に迫る危険に。
横からの衝撃に男の体が小さく宙に浮いた。黒い車体が横断歩道の中ほどで止まる。車から運転していた女性が降り、状況を読めていない後続車のクラクションがけたたましく鳴る。
男の渡ってきた歩道の信号は赤。この事故は、信号の色が見えていなかった男のせいでもある。
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