赤い約束

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昨日の日曜日の話。 あたしは、おやじ様からの業務命令により取引先の接待に 駆り出される事になっていた。 今までも、そういう事はあった…けど、今回はなんだか様子が違うような… 朝から通いのお手伝いさん、冴子さんに仕度を手伝ってもらっているのだが。 「ねぇ、冴子さん。なんでこのくそ暑い日に、振袖なんて着なきゃならないの?」 帯をぎゅうぎゅう締められ、息も絶え絶えになりながら尋ねる。 「美月さま、『くそ』は余計ですよ。できれば猛暑とおっしゃって下さい」 すかさず、窘められてしまった。 冴子さんは、お手伝いさん兼教育係り。 おまけに生まれてすぐにかあ様を亡くしたあたしを、母親代わりに 育ててくれた人でもある。 「今日の接待相手って、外国からのお客様なのかなぁ?」 「さぁ、私は存じませんけど…」 おやじ様は今年創業30周年を迎えた、年商1兆円を超える ワインの輸入販売会社「quatre raisans(キャトル・レザン)」の 代表取締役を務めている。 フランスのブルゴーニュにグラン=クリュ(特級畑)を所有し オリジナルワインの醸造も手がけている為、接待客が外国からの お客様というのも珍しい事ではなかった。 それにしても『猛暑』に振袖なんて… 「さあ、出来ましたよ」 薄紫の辻が花の振袖。かあ様の形見の品だ。 鏡の前に立ち、両袖をつまんで軽く広げてみる。 「素敵ですよ」 後ろから冴子さんが覗き込み、にっこり笑った。 「美月、準備は出来たのか?」 おやじ様――片桐悟朗(かたぎり ごろう)が汗を拭き拭き入ってくる。 「どうかしら」 優雅にターンすると、アップに結上げた髪に挿した簪がしゃらりと 涼やかな音をたてた。 おやじ様の目尻にしわが寄る。 「うん、よく似合ってる。だんだん母さんに似てきたな」 写真でしか見た事のないかあ様と、似ているのかどうか 正直自分では良く分からなかったけど、おやじ様の喜ぶ顔を見るのは嬉しい。 出張が多い為、ほとんど家にいないおやじ様と、こうしてゆっくり 話しが出来るのは、本当に久しぶりだ。 「さて、先方を待たせては悪い。そろそろ行こうか」 おやじ様は大股で、部屋から出て行った。 「じゃあね、冴子さん。行って来るわ」 軽く手を振って、おやじ様の後に従う。 冴子さんの、心配そうな顔にも気付かずに…
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