125人が本棚に入れています
本棚に追加
おやじ様は、嫌がるあたしを引きずるようにして、ラウンジへと向かう。
「いやぁ、遅くなってすまん」
あたしは、汗を拭きながら挨拶するおやじ様の影に隠れるようにして突っ立っていた。
相手が立ち上がる気配がする。
「こっちも今来たところだ。あ、息子の涼」
おやじ様の背中越しに、『婚約者』とやらの顔を覗き見た瞬間、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
まさか、こんなところで再会するなんて…
「何?知り合いだったの?」
花菜子が、身を乗り出すように尋ねる。
「知り合いっていうか…」
さらに遡った、金曜日の夜。
いつもの如く、おやじ様は出張で家を空けていた。
冴子さんも午後7時で自宅に帰ってしまい、暇を持て余していたあたしは
ひとりでクラブに遊びに行った。
その後、たまたま目についたカフェバーに立ち寄った時…
少し照明を落とした、落ち着いた雰囲気の店内。
古いジャズがゆったりと空間を満たしている。
カウンター席の奥に座っている男が目に入った。
彫刻刀で刻み込んだような、くっきりとした二重の切れ長な目と通った鼻筋。さらりとした黒髪。
長い足を組んでロックグラスを傾けている姿は、とても絵になる。
うわぁ、モデルさんかしら?
少し離れた、スツールに腰を下ろしながらそんな事を思っていると
突然、メール通知の着信音が…
しまった。マナーモードにするのを忘れてた。
スマホを取り出し、確認すると発信者はおやじ様だった。
めずらしいな。
いつもはメールするより電話をした方が早いと言っているのに。
受信画面を見て、思わず苦笑。
これじゃ、電報じゃない…
『にちよう せつたいあり いしょにいつてほしい ちちより』
当然絵文字など一つもない、ひらがなの羅列。
『日曜 接待有り 一緒に行って欲しい 父より』
多分、そう打ちたかったんだと思う。
あたしは、くすくす笑いながら、返事を送った。
『りょうかいしました。 みづき』
顔を上げ、ちらっとカウンター奥を見た瞬間、男と目が合った。
どきっとするほど、きれいな微笑を浮かべる。
あたしは、あわてて目をそらし、マスターにマルキ・ド・シャスの
ルージュを注文した。
なめらかで優しい口当たりとカシスのような香りを堪能していると
いきなり、後ろから声を掛けられた。
「おネエさん、ひとり?」
最初のコメントを投稿しよう!