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「ねえ、先生」
呼ばれて僕は本からベッドへと視線を移した。彼女はその真っ黒な瞳で私を見ていた。
「私、また眠っていたのね」
ええ、と僕は頷き読みかけの本に栞を挟んで閉じた。
「……いつだったかも、こんなことがありましたね」
「そうだったかしら。私はいつも同じことを言っているような気がするわ」
まだ寝起きの気怠さが抜けないのか、彼女は緩慢な動作で上半身を起こし、枕代わりのクッションに体をもたれかけさせる。
二重窓の向こうから入り込む光がベッドを照らす。
すっかりなくなってしまった純白のベール。僅かに黄ばんだ白いシーツ。堅牢豪華な天蓋だけが彼女を守るように構えている。
「先生。お水をいただけるかしら?」
僕は頷いて席を立ち、待機室へと繋がる扉を開ける。中には誰の姿もない。薄く埃の積もった机の上からコップを手にして、蛇口をひねる。水だけはいつも変わらず透明なままだった。
僕は部屋に戻るとベッドの縁にかつて彼女の乳母がそうしていたように腰をかけガラスコップを手渡す。僅かに熱い彼女の指先が触れる。彼女はコクコクと小さく喉を鳴らして水を飲みほした。
「ありがとう」
「どういたしまして。まだ、眠りますか?」
「いいえ。みんなのことが気になってずっと眠っているなんてできないわ」
かつてこの屋敷にいた人々がここを離れ田舎に疎開して既に二年が経とうとしている。戦争は悪化し、この屋敷も危なくなったために彼女が暇を出したのだ。
「嫌です。私は最後までお嬢様といます」
そう頑なに拒否をしていた女中頭も、食料が配給制へと変わったころにここを離れた。最初のうちこそ頻繁に手紙が届いていたが、それもここ一年ほどは途絶えたままだ。
「みんなの身に何かあったらどうしましょう……」
コップを手にしたまま、彼女の手が小さく震える。この屋敷で共に暮らしていた人の全てが彼女にとって家族であり、世界でもあった。
「大丈夫ですよ。今は、恐らく書く時間もないのでしょう」
戦争は未だ終わりも見えず、状況は悪化していく一方だ。配給制へと変わった食料も少しずつだが量が減り、二人分を作ることでも精いっぱい。彼女のいる屋敷ですらこの状況なのだから、疎開した女中頭や乳母はもっと困窮しているかもしれない。
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