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おじいちゃんは、見た目の通り、絶対にそんなことはしません。私が保証します。安心してください。おじいちゃんはこの世の中で数少ない信用してもよい人です。大丈夫です。
幸せになってね。愛しています。大好きです。
母より
青々と瑞々しい稲穂が水田に広がっていた。太陽はどんどん昇って行きどんどん暑くなっていった。生ぬるい風が時々通り抜けた。私は汗だくで坂道をしゃかりきに漕いでいた。苦しくなって立ち漕ぎに切り替えて必死になっていたら、背後から凄い勢いで追い越していく一台の自転車があった。その自転車には見覚えがあった。緑色で、誰かのおさがりだったのかボロボロで全体的にさびれていた。漕ぐ度にギィギィ音がした。その自転車は私を追い越して坂の上で止まった。
「つけてきたの?」
はあはあを息を切らせながら私は立ち漕ぎのまま言った。
その言葉を無視するように、
「この坂くらいは楽勝でしょ」
と不敵に笑って満作は憎まれ口を叩いた。強い日差しに晒された小麦色の肌からは瑞々しく汗が滲んでいた。いつものキャップをいつものように目深にかぶり、見慣れたTシャツと半パンだった。どこで私に気付いたのか知らないがずっとこっそりと後をつけて来たのだろう。
「ガキは帰りな」
私は必死に坂の上を登り切ったところでそう言って、間髪入れずに自転車を進めた。
満作は何も言わずに私の後ろを着いて来た。
私の住む町から一つの市を挟んだ向こう側の街の更に奥の人里離れた場所にその施設はあった。坂の先の先、山のてっぺんにあっけなく静かに佇んでいた。
自転車から降りた私は、足がすくんで建物の中に入れずにいた。
フェンス越しに施設の広場が見えて、綺麗な黄緑色の芝生の上を人が散歩していたり談笑していたりしていた。その中に、知っている顔を私は直ぐに見つけた。その人は私が知っている顔よりも少しだけ緩んでいて、少しだけ可愛かった。少しだけ別人だった。
この手で触れたかったその人は、少しだけ、もう私の母ではなかった。
フェンス越しに母の輪郭をゆっくりなぞって、そして滲んだ視界で空を見上げた。
真っ昼間で、大きな入道雲がすごい迫力で青空を這っていた。
私は一度大きく深呼吸をした。心はなぜだかもう満たされていた。
「さ、帰ろう」
私は言った。
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