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「もっと不遇な人ってたくさんいるよ」
私は言った。こういう時に、とっさに何と言っていいのか分からない。
「私、旅館継ごうと思ってるんだ。お母さんはいずれ私を東京に呼び寄せたいみたいだけど、私はやっぱりここが好き。ここの人たちが好き。お母さんみたいに何が何でもここを離れて行きたいとは思えない。お母さんみたいに恵まれた人にはきっと見えないんだろうね、本当は何が一番素晴らしいのか」
「素敵な夢だね。その時は、きっと泊まりに来るよ」
秋が始まったばかりだった。乾いた風が温泉の熱気を運んで吹き抜けて行った。ぽつぽつと所々に白い湯気が立ち、浮世離れした風景の中で、地に足の着いた小雪ちゃんの素敵な夢を聞けて幸せだと思った。小雪ちゃんのお母さんと同様、私も未婚のまま妊娠していて、そんな素性もあまり明かさないまま一人きり旅館の離れで長期滞在している謎の女に、旅館の人たちは小雪ちゃんだけじゃなくさり気なくとても優しかった。女将さんと大将は私がここへ来る前に梶原さんから事情を聞いていて知っていたが、他の人たちは小雪ちゃんも仲の良くなった仲居さんも料理人見習いの若い男の子も皆、何か事情があることは察していても深入りせずにほっといてくれた。
「その頃には何歳だろうな、この子」
小雪ちゃんがふと私のお腹に触れた。白くて華奢な手が優しく擦った。
それは今、この瞬間、温泉街の昼下がりに三人で佇んでいるということだった。
私は不安を通り越して妙にハイだった。ゾクゾクしていた。
こんな私が母になるのだ。
まだ子供で、大人がどんなものなのかも本当は何も分かっていないのに。
その日の夕方、ようやく陣痛が始まって、それから十二時間くらいずっと苦しんで、翌日の早朝にこうちゃんは生まれた。私は間借りしていた離れの一室で、別府へ来てからずっとお世話になっていた産婆さんに見守ってもらいながら出産した。
無事、安産だった。
私はしばらく眠り、ふと目覚めて、今が何時かも分からずぼやけたままの天井を見上げた。少しして、自分がさっき出産したことを思い出した。慌てて横を見たら、私の布団の横に小さな布団が敷いてあり、そこに寝ている筈のこうちゃんがいなかった。私は慌ててぬっと起き上がり辺りを見渡すと、薄暗い部屋の隅っこで静かに満作がこうちゃんを抱っこしていた。
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