第三部

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環は日本から履いてきた靴がボロボロでパリで買い替える際に、出来れば安くて丈夫なものをと店主に頼んだ。店に入ってきた大きな東洋人に店主はからかい半分で「4足買っても足りないんじゃないか?」と笑ったが、環は自分の足を指さし「大人のだと1足でも余ってしまう」と返す。店主は「こりゃあ参った」と薄くなった髪を撫で、店の奥からこのシューズを出してきた。 「ああ、フィリップの店に行ったのか」 「クロエの靴はいつもあそこで買ったわね」 二人のしんみりした様子に環は首をかしげて見守った。 ジャンはグレーのジャケットを直して、マリーの肩を抱き、環に話す。 「実は娘が亡くなって10年なんだ。今日が命日でね。最後に――事故に会った時に履いていた靴が、それと同じものなんだよ」 マリーもジャンとお揃いのグレーのシックなワンピースを着て、目元を白いハンカチで拭う。 「そうですか……」 「君はここで何をしているんだね?」 環はしんみりとした二人に自分はモデルになるべく日本からパリに着てオーディションを受けている最中だと説明した。 擦り切れたジーンズと寒空の下、薄いシャツ1枚の環にマリーは同情の目を向ける。 「あの、あなた、一人なの? 友人とかご家族とか。どこに住んでらっしゃるの?」 日本人は裕福だと彼らも思っており、実際に日本人留学生は裕福層が多いため、環は非常に珍しく映る。 「え、と、この通りを右に曲がったパン屋の上です。独りです」 環の話を聞きながらマリーはどんどん彼女に傾倒していく。 「ねえ、あなた、うちにいらっしゃいよ。きっとこれは神様の思し召しだわ。クロエが生きていたらあなたと同じ歳になる。ねえ、ジャンそう思わなくて?」 すっかりその気になっているマリーを優しく見つめるジャンは環の靴の匂いが気になっていた。 「ふむ。そうかもしれない」 「あ、あの……」 戸惑いを隠せない環はどうしたら良いのかわからない。遠い異国の地で初めて会った夫婦にうちに来いと言われる。二人が悪人ではないと信じたいが、警戒心を緩めるわけにはいかない。
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