第四部

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香りを楽しんでいると芳香がカチャリとカップを置いて「薫樹さん」と声を掛ける。 「ん?」 「あの、薫樹さんはフランスに行くんですか?」 「え? ああ、立花、じゃない、鳥居さんから聞いたのか」 「はい……」 「行かないよ。断るつもりだ」 「え? なんでですか?」 「なんでって言われても……。行く理由がないからかな」 「ええ!?」 「なんだか不安そうだと思っていたが、もしかしてフランスに行くと思っていたのか」 「ええ……。だって普通、すごっくいいお話ですよねえ。いかない方が変ですよねえ」 「確かに、普通なら行くだろうか」 日本で調香師としてこれ以上ないくらいの成功を収めることに間違いはない話だ。調香師ならだれでも羨み、願うチャンスだろう。 しかし薫樹は調香師であることが目的であって、成功を収めることが目的ではなかった。 「そんな……。いいんですか? 断るなんて……」 「君がフランスで暮らしてみたいというなら行ってもいいよ」 「ええっ! そ、そんな……」 「フフ。僕は僕が納得できる香りが作れたらそれでいい。そしてそばに君がいて欲しい。別に経済的に困っているわけでもない。これ以上忙しくなったら君との時間が無くなるだろう?」 「は、はあ……」 芳香は捨てられるのではないかと恐れている子犬のように心配そうな目をする。 「君のせいで行かないんじゃないから、心配しなくていい。ちゃんと人生のプランが僕にはあるし、フランスのメーカーに従事して大きな名声を得ることが幸せの道とも言えないんだからね」 香水王の故ジャン・モロウの事を思い出す。彼は一人娘のクロエを亡くした時、イタリアのメーカーで調香師として活躍していた。クロエが事故に遭い重体だと聞かされ、最高の経済とスピードをもってしても死に目に会えなかった。それ以来、フランスから、妻のマリーから離れず、調香学校の講師という社会の脚光を浴びる場所から裏舞台へと身を潜めた。 「ジャンのようにどこに居ても名香は生み出せるものだからこの『TAMAKI』のようにね」 少し安心した様子の芳香の頭をそっと胸に寄り抱えさせる。
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