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当然、わたしの腕の中で泣きじゃくる彼の髪をなでると、すぐに罪悪感が訪れた。
だけど同時に、よかった、とも思った。
これで彼は、ようやく救われるんだって。
もう二度と、あんな悲しそうな顔をさせずに済むんだって。
わたしは、もう一度決意した。
彼を、騙すことを。
彼の望む「私」になることを。
彼の笑顔を取り戻せるのは、わたしではなく、「本当の私」だけなのだから。
そう。
わたしはその日から――
記憶を取り戻したふりをしている。
***
男湯から、彼が呟くのが聞こえる。
「綺麗な月だね。……まるで、あの時みたいだ」
あの時――。
それは、わたしの知らない、あの時。
あいにく日記には、月が綺麗だったかどうかまでは書かれていなかった。
でも、彼がそういうのなら、そうだったのだろう。
だったら、わたしの答えは決まっている。
「うん。……そうだね」
――わたしの嘘に、彼が気付いている様子はない。
これからも、気付かせてはいけない。
もちろん、こんな嘘にまみれた生活に苦しさを覚えない日はないし、いつか本当に記憶が戻ったとき、今のわたしの存在がどう扱われるのかだってわからない。
もしかしたら、今のわたしの記憶や感情は、消えて無くなってしまうのかもしれない。
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