誰にも言ってないこと

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駅のホームを降りると同時に、初夏の香りが僕の頬を掠めていった。水気を多分に含んだ風に土の香りが混じっている。 もうこんな季節か。 僕は駅の改札を抜けると通り慣れた大通りの一本裏の道に進む。アーケードのある商店街とは離れたその道は家々の壁の合間を縫うように細々と続き、ひんやりと影に覆われていた。虫もおらず、どこからか涼しげなせせらぎさえ聞こえてきた。昼間の5月とは思えない熱気から解放され、僕はようやくほっと気の休まる思いをした。ざぁ、と吹き抜ける風に釣られ目をやると、隣家の垣根からはみ出した木々に季節の実がなっている。周りに人はおらず、静かに風だけが通る。 死ぬのならば、こういう場所がいい。 唐突に過ぎる思考。 「あの日」から、僕はそれまでどこか遠い星のことだとでも思っていたそれを常に近くに感じずには居られなくなった。 もっと、ずっと、先だと思ってた。 木立の作るまばらな薄い影が、僕の足元を優しく音もなく撫でる。 さよなら。 そう言って割り切れる人など、いるのだろうか。 僕があの日から感じ続けていたこの感情は、年月が経ちすぎてもう悲しいという言葉では表現できなくなっていた。海辺に落ちている色ガラスを太陽に透かして見るときのような、くぐもった優しさと懐かしさと、刺すようなきらめきを失った寂しさが同居していた。 涙はもう出ない。 ただ、君に出会う想像を今でもときどきする。 ありえないことだとわかっているけれど。 想像の中の君は時におちょくるような笑顔で、時に憤慨した様子で、また時には泣きながら、僕に話しかけてくる。まっすぐで、自分の弱さを晒してでも人に、自分に正直であろうとするやつだった。 もう会うことはないんだろう。 もし もし仮に また君に逢えるとすれば。 何度も繰り返し、そして何度もその仮定を打ち消してきた。もう、君はいない。そう自分に言い聞かせて。 だからたまにはこうやって君のいない喪失感に甘えたくなる。君のことを考えていると、川の流れの中、ここだけが取り残された時のように錯覚する。 流れの中に戻ればまた忙しない毎日が巡り出す。しかしまた気づけば切り取られた時の中に僕の意識は還ってくる。 その繰り返し。 いつか…、 もうすっかり日が落ちた空を見やると、星々がちらちらと瞬いている。 …いや、考えるのはよそう。 僕は明かりの差す商店街のほうへ、一歩踏み出した。
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