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第一章
《1》
柔らかな日差しが窓から差し込んでくる初秋の午後。
そんな心地のいい陽気とは裏腹に、私、早坂梓は今、ちょっとしたピンチに陥っていた。
右手が痒くて堪らない。それも運の悪いことに、親指と人差し指の間、一番痒い場所だ。
今朝、季節外れの蚊に刺されたまま、薬も塗らずに出てきてしまったのがいけなかった。今になって思い出したように、猛烈な痒みに襲われる。
一旦そう感じてしまうともう駄目だった。痒い。掻きたい。ああ、ものすごく、全力で掻きむしりたい。
……が、この状況で、そんなことができるはずもないのは充分わかっていた。
私は今、右手に短いホース状の器具、左手には先が釣り針のように曲がった短い肢の針を持っている。針で自分の手を刺す、なんていう間抜けな失態だけは絶対に避けなければならない。
少し顔を上げ、目の前の白衣の男にチラリと目をやる。この半年間、その顔が不快に歪むことはあっても、わずかにでも笑みを見せたことは一度もない。私は唇を強く噛んで、なんとか痒みに耐えた。これが辛うじて今できる最善の策だった。
もうそろそろこの治療が終わる。頑張れ私。それまでの辛抱だ。
「早坂さん、バキューム」 目の前に立つ白衣の男が、下を向いたまま指示を出す。
「は、はいっ!」
私は慌てて返事をし、右手の短いホース状の器具を、診療台に横になっている患者の口内に滑り込ませる。瞬時に口内に溜まっていた唾が、ズズ、という音とともにバキュームの穴に吸い込まれていく。ようやく呼吸を許された患者が、短い息を2、3度繰り返す。
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