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いまは神経治療の最中だった。歯の奥にある神経を抜き取るのだから、当然麻酔がいる。麻酔の効きやすさには人それぞれ体質やその日の体調によって大きく差があり、さらに神経という繊細な部分を触る治療であるため、時間がかかることが多い。麻酔の待機時間を含め、すでに治療が始まって1時間が経とうとしている。
「痛みがあったり気分が悪くなったりしたら、手をあげて教えてくださいね」
「はい。大丈夫です」
患者さんは自分から言いづらいこともあるので、適切なタイミングでの声かけも重要だ。
「探針」
次の手が差し出される。ここまでくれば、治療ももう少しで終わるころだ。
「はい」
私はその手に、素早く左手の針の肢の部分を向けて渡す。
右手が自由になった途端、どっと開放感が押し寄せる。
私はようやく、左手で右手の指の付け根を掻いた。ふう、と安堵の息を吐き、静かに左手を下ろしたーーそのとき。
目の前から向けられた身も凍るような冷ややかな視線に、思わずビクッと肩を震わせる。
「……早坂さん」
白衣の男は眉間に神経質なシワを寄せ、眼鏡の奥の目を不快そうに細め、聞き分けのない子どもを諭すように、あえてゆっくりと口を動かした。
「ちゃんと、患部に、ライトを当ててください」
「……はい」
私は下ろしたばかりの左手を慌てて持ち上げ、患者の顔の真上にあるライトのアームをずらし、上顎に光を当てた。ただ下から当てればいいというものでもない。きちんと患部に光が行き渡るよう、先生の位置から見えやすいよう、的確な角度から調整して当てる。これがなかなか難しい。
そして勿論、手が自由になっても、無造作に遊ばせていいわけではない。痒いところを掻くなど以ての外。
この手は常に、先生が治療をスムーズに進めるためのサポートをしていなくてはならない。
それが、私たち助手の仕事だからだ。
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