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「ちょっと待ってください。俺を、助けようとして……?」
「そいつは幽霊でもなんでもない、ここの同居人だよ。待ってろ。おい、ナオ!」
夕が部屋の入り口めがけて声を張り上げる。
「そこにいるんだろ?」
その声に応えるように、半開きになったドアの陰から長髪の男がゆらりと顔を出した。
「うわっ……」
その登場の仕方に、思わず声が出てしまった。慌てて手で口元を覆う。それを見て夕はけらけら笑った。
「あー大丈夫! お化けみたいだけどこいつは無害だから。あと、ちゃんと生きてるから」
長身で細身、肌は白く、手足は長い。間違いない。昨日窓から入って来た手と同じだ。
「えっと……、おはよう」
『ナオ』と呼ばれたその男は、消えそうな声でそう言ったものの、柳太と目を合わせようとはしていなかった。その外見から見るに、年齢は柳太と同じくらいだろうか。
髪は真っすぐ肩につくほどの長さで、栗色だった。さらさらと風になびいているそれはまるで女のように艶がある。肌の色は透き通るように白かった。また、切れ長の二重の目を申し訳なさそうに伏せたままそこに立つ背丈は、改めて見ても高い。だが猫背だった。姿勢よく立てばひょっとしたら百八十センチくらいはあるのではないか、と柳太は思った。
「お前な……。おはよう、じゃなくて!」
夕がその男の背中を強く叩く。
「驚かせたんだから、ちゃんと謝れよ」
「ごめん……」
言われるまま、男は頭をペコッと下げた。
「いえ……」
柳太も思わず釣られて頭を下げる。
「自己紹介は? まだしてないんだろ?」
「うん……」
男は柳太を一瞥すると、俯き加減なまま言った。
「僕、藍染尚央です」
「藍染尚央、さん……。よろしくお願いします。俺は緑河柳太といいます。昨日から、ここでお世話になってます」
尚央はやはり目を合わせない。重度の人見知りなのだろうか。
「尚央? 柳太はここで家の仕事を手伝ってくれる。ちゃんと言うこと聞けよ。ほら、前に話してた花屋のお兄さんな」
夕がそう言うと、尚央は顔を上げた。それまで伏せていた尚央の目が柳太をしっかりと見て、一瞬キラッと輝く。それから「よろしくお願いします」と言って、今度はさっきよりも丁寧に頭を下げた。
「尚央、もう行っていいよ。あ、洗濯! 洗濯物干しといて!」
夕がそう言うと、尚央は背を向けて部屋を静かに出て行った。とりあえず人間で良かった、と柳太はホッと息を吐く。
「あいつさ、あんなだけど俺の従弟なんだ。ちょっと事情があって一緒に住んでる。慣れるまでは大変だろうけど、よろしく頼むよ」
夕はそう言って柳太に頭を下げる。
「そうだったんですか。俺は平気です! 全然……っくし!」
盛大にくしゃみが出た。それもそのはず、柳太は今、ほぼ裸の状態なのだ。
「ごめんごめん! 何か着た方がいいな。この上風邪ひいたら大変だ。柳太、当分仕事はいいからさ、とりあえずよく休んで」
夕はそう言いながらクローゼットの中から「これでいい?」とスウェットを取り出して柳太に渡した。「はい。あの俺、体は大丈夫なんで、仕事させてください」
「ダメー。お前さ、昨日なんで自分が起きなかったかわかってないだろ?」
夕はそう言って腕組みをした。まるでこれから説教でもはじめそうな雰囲気だ。柳太は渡されたスウェットを着て、かぶりを振った。
「夕べな、おれが慌てて抱きかかえて揺さぶったら柳太は一度目ぇ覚ましたんだ。でもちょっと会話した後、またすぐ寝ちゃったんだよ」
「え? 話したんですか? 俺が?」
「覚えてないか。じゃあ、やっぱりあれは寝呆けてたんだな」
言われてみれば、夕と会話をしたような気もしてくる。ただ、記憶はぼんやりとしていて、それが夢だったと思えば疑いなく信じてしまえるほど曖昧だった。寝起きの頭をフル回転させてみるが、やはりうまく思い出せない。柳太が首を傾げて唸ると、夕は続けた。
「お前はさ、家のこととか就活とか、みんな抱え込んでたせいで心身共に限界だったんだよ。どうせただでさえ忙しいのにコンビニのバイトだって夜勤もやってたんだろ」
「えぇ、まぁ……」
「働き過ぎなんだよ。そういうのが祟ったの。いいか、それはもう疲労じゃない。過労って言うんだからな」
「過労……」
「過労死って言葉くらい知ってるだろ? そういう生活してると、今に死ぬぞ。冗談抜きで。しっかり休め、バカ」
憎まれ口を叩いた夕の着ているものは昨日のままだ。もしかしたら、一晩中柳太に付いていてくれたのかもしれない。
夕は本気で柳太の体を心配してくれているようだった。
「……すいません。せっかく雇ってもらったのに、何もできなくて……」
「あー、雇ったけど瀕死じゃどうしようもないから、体力回復させてこき使おうと思ってるだけだよ。気にすんな。とりあえず今日から一週間は仕事はいい。わかったな?」
「はい……」
夕は柳太の頭にぽん、と手を置く。
「おれはな、お前に死なれちゃ困るんだからな。あ、そうだ。腹減ったろ? シャワー浴びて着替えたら朝飯にしようか」
優しい声でそう言って夕は微笑んだ。柳太はそんな夕にただ頷き、頭を下げることしかできなかった。
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