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「着いたぞ」
運転席の男が後ろを振り返って柳太に言った。ハッと我に返る。車はとある大きな家の門の前で停まっていた。柳太のすぐ左横のドアが夕によって開けられる。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
「柳太、さっきも言ったけど今日はお客が来てるんだ。突然で悪いんだけど、挨拶だけ頼むな」
「はい……」
柳太は荷物を両手に持ち、車を降りる。それを自分で詰めはしたものの思ったより重さを感じて、一度それを持ち直した。荷物の中身は数日分の着替えや生活用品、それに貴重品だ。
さっき、すぐに出発すると急かされた柳太は、黒縁眼鏡の男の運転する車に乗ったあと実家に寄ってもらった。それから大急ぎでもう何年も使っていない旅行鞄を引っ張り出してきて、その中に思いつく荷物を適当に押し込んだのだ。
「一つ持とうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか? あ、ちょっと退(ど)いてて。車、先入れると思うから」
夕は笑みを浮かべながら目の前にある大きな門を押して開けた。すると車がゆっくり門の中へ入って行く。柳太は端に避けながら、今一度その邸宅の外観を確認した。
「お、大きい……」
心の声がそのまま素直に口に出る。柳太の立っている大きな門の先には広い庭が見えた。その向こうには見事な西洋式の建物が建っていて、窓からはオレンジ色の灯りが漏れている。それを家と呼ぶにはあまりに恐れ多かった。たぶん、屋敷と呼んだ方が正しいだろう。また、庭の中には火を灯したような小さな照明が、ぽつり、ぽつりと置かれていて、屋敷の玄関まで続き、足元を照らしていた。
呆気に取られていると車のエンジンが切られて、黒縁眼鏡の男が颯爽と降りてきた。細身のスーツときちっと絞めたネクタイが見事にキマっている。夕も同じくスーツを着こなしているが、ネクタイはやや緩んでいた。たったそれだけで、夕は眼鏡の男と並ぶと随分とカジュアルに見えた。
「なぁ、おれとお前がここにいるってことは、お客の相手は誰がしてんの?」
不意に夕が聞く。すると眼鏡の男は声を苛立たせ、だが静かに言った。
「だからそれは尚央に任せたんだよ」
「えぇっ!」
「……仕方ないだろ? あいつを無免許運転で迎えに行かせるか、あいつも一緒に連れてって客人を一人ぼっちにするか、あいつに客人を任せるかしかないんだから」
「そうだよな。いやぁ、やっぱり柳太に来てもらって正解だったかもな」
そう言って、夕は柳太に振り返る。
「あっ、はい……?」
訳が分からずに、それでも精一杯何かに応えたくて返事をした。
眼鏡の男は「全く……」と一言ぼやいて、柳太が両手に持っていた荷物の片方を奪うように持つと、すたすたと歩いて先に行ってしまった。理由は不明だが、あまり歓迎されていないのかもしれない。彼の態度がそう言っている。
「柳太、ごめんな。あいつ、おれと一緒に仕事やってるんだ。あとでちゃんと自己紹介させる。愛想はないけど、悪い奴じゃないから」
てっきり第一印象で嫌われでもしたのかと思ったが、どうもそういうわけではないらしい。もっとも、本人に聞いてみなければ本当のところはわからないが、夕の言葉は少なくともそれを否定していて、柳太を気遣っていた。
「さ、どうぞ」
夕はやはり笑みを浮かべてそう言ってから、玄関の中へ入るように柳太を促す。玄関の扉もまた随分と大きく重厚で、立派なものだった。
「お邪魔しま――」
「あー、違う違う!」
夕はかぶりを振って柳太の声を遮った。
「いい? ここはもう柳太の家なんだから、ただいま、でいいんだよ?」
「はい……。じゃあ、た、ただいま……」
「おかえり、柳太。ようこそ、我が家へ」
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