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家の中には夕食時のいい香りが漂っている。食欲をそそる香ばしい匂いと、どこかすっきりとした花のような香りがそこに混じっていた。
「この香り……。ローズマリーですか?」
「おっ、よくわかったな! 今日はハーブで鶏を焼いたんだ」
夕は嬉しそうに靴のまま家の中へ入っていく。柳太がそこで立ち止まっていると、夕はそれに気付いて言った。
「柳太、ここはそのまま土足で入ってきて。一階は基本的に土足でいいから。ただ、ちゃんと泥とかついてたら払ってな」
「はい……」
へぇ。欧米の家なんかと一緒か……。
変わっている。だがここでの習慣をすぐ理解して、そのまま中へ入った。
「上に行く時は靴脱いで、階段下に靴箱があるからそこにしまって。室内履きは――そうだな、とりあえず今日は客人用のスリッパ使ってもらっちゃっていいや。今度新しく用意するから」
「ありがとうございます。荷物はどうしたらいいですか?」
「うーんと、あ……! とりあえずその辺に置いといてくれる?」
夕はすぐそばの大きな階段下を指差している。柳太は言われるまま、荷物をそこへ置いた。
「よし、じゃあ行こう! 一仕事だ」
夕に連れられ、柳太は中央の大きなガラス扉の先の部屋に入った。
「すみません! すっかりお待たせしてしまいました!」
玄関から入ってすぐの部屋はリビングルームになっているようだ。夕は一人の男に向かい深々と頭を下げる。そこには白髪が混じった短髪の、中年の男が立っていた。男は夕の声を聞いてすぐに振り返った。
「やぁ、おかえりなさい!」
柔らかく微笑んだその男は、いかにも善人そうな、優しそうな顔をしていた。
「本当に申し訳ありません、こちらがお呼びしておいて……」
夕はなおも謝り、頭を下げている。
部屋の中央には大きなダイニングテーブルが置かれていた。その上には彩が美しいたくさんの料理が並んでいる。部屋の隅には暖炉があって、中では火がパチパチと音を立てながらよく燃えていた。
眼鏡の男はてきぱきと花瓶に花を生け、それを大きなテーブルの真ん中に置き、ふうっと息を吐いている。
「こちらのことはどうぞお気になさらないでください。それより赤荻さん、車を盗難されたって聞きましたけど、大丈夫なんですか?」
「えぇ、まぁ。本当に何というか……災難でした」
夕はそう言って苦笑いをした。真実を告げるべきではない、と柳太も思う。
「正月早々、ですね。でもこれで悪い奴が全て悪運を持って行ってくれたとしましょう」
そう言った声も、言い方もとても上品だった。言った後、男は柳太に目をやる。それに気付いた夕が慌てて柳太の背中を押した。
「あっ、紹介が遅れましたが、彼は我が家の使用人の緑河です。今日入ったばかりですがよろしくお願いします」
「緑河柳太です。よろしくお願いします」
柳太が頭を下げる。すると、男はまた目を細めた。
「これはこれは。私は篠崎清太と申します。那須の方で店をやってまして。今日はね、すごい宝物を見せて頂けると聞いて、こちらに呼んで頂いたんですよ」
「篠崎さんは、那須の美術館内でカフェを経営されてるんだ」
「そうなんですか……」
「小さい店ですがね。ただ、だからこそ細部にこだわれる強みはあると思っています。あれ、そういえば、緑河くんはおいくつですか?」
「二十五です」
「あぁ、やっぱりだ! 同じくらいかなぁと思ったんです。私の店にも君と同じ歳の若手がいるんですよ」
篠崎はそう言ってから、柳太の肩にポン、と手を置いた。
「うちの若手は、最近再スタートをきったばかりなんです。君も頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
篠崎というその男の顔からは、優しさが滲み出ていた。一目で善人だとわかる顔つきだ。それはどこか父親の洋一にも似ている。そんな気がした。
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