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「では篠崎さん、こちらへどうぞ。今日は四種類用意しましたので、お味見してみてください」
夕はそう言って、テーブルの上に置かれた四本の遮光瓶を開け、そのそばに置かれた小さな器に少しずつ、その中身を注ぎ入れた。それは澄んだ黄緑色をしていて、少し粘性があった。
「おぉ、これが。聞いていた通り綺麗な色だ! 楽しみにしていたんですよ。知り合いがね、オリーブオイルに革命が起きたと言うものだから」
「恐縮です」
夕はそう言って深々と頭を下げる。
「いやいや、近頃はひどいものも多くありますから、こういった品は我々にとっては貴重です。あ、そうそう。先ほどの方が――あれ?」
篠崎はそう言って、部屋の中をきょろきょろと見渡した。眼鏡の男が夕に頻りに目配せをしている。
「あー! えっと……彼なら仕事があるそうで、今ちょっとアトリエに……」
思い出したように夕が言った。篠崎は首を傾げる。柳太も理解できずについ一緒になって首を傾げそうになった。
「アトリエ? 彼は……アーティストなんですか?」
「えぇ、まぁ……」
「そうか、そうだったんですね! なるほど、それで合点がいきました。彼の言葉も、雰囲気も」
篠崎はそう言って目を輝かせながら頷いた。どうやら合点がいかないのはこの四人の中で柳太のみであるようだ。
「素晴らしい! 私達は何か縁があるのかもしれません。これがただの偶然とはとても思えませんよ」
感激している篠崎の背後で、眼鏡の男はホッと息を吐くと、柳太を一瞥して言う。
「申し訳ありませんが、篠崎さん、私は少し席を外します。柳太、こっちへ」
眼鏡の男は柳太の肩にポン、と手を置いて、廊下へ連れ出した。
「ご苦労だったな。部屋へ案内する。篠崎さんが帰る頃にまた呼ぶから」
眼鏡の男は廊下に出るなりそう言って、階段下の荷物を取り、靴を脱いで室内履きに履き替えた。
「お前はこれを使え。ここは裸足だと足が汚れるぞ」
柳太の足元に刺繍の入った真新しいスリッパが置かれる。柳太はそれを履いて、残りの荷物を持った。
「あぁ……そうだ。まだ自己紹介をしていなかったな。オレは如月穂積だ。夕と一緒に会社をやってる」
如月穂積と名乗った眼鏡の男はそう言うとすぐに階段を上がって行った。柳太は慌てて穂積を追う。
「よ、よろしくお願いします!」
「家が大変だったそうだな」
「はい……」
「オレの家もな、ぐちゃぐちゃとトラブルの多い家だった。だからお前の気持ちがわからないわけじゃない。それに突然連れて来られて、今はきっと戸惑いも大きいだろうが――」
「はい……」
階段を上がりきると、左右に伸びた広い廊下に出た。穂積は、「こっちだ」と言ってそこを左に曲がる。
「ここに悪い人間はいない。皆少し風変りだが無害だ。何か不安なことやわからないことがあれば頼っていい」
表情を変えずに淡々と話す穂積の口調は、お世辞にも優しいとは言えない。しかしそこには確かに思いやりが感じられた。やはり夕の言う通り、この男は悪い人間ではなさそうだった。
「ありがとうございます」
「その代わり、こちらとしても言いたいことは言わせてもらう。特別扱いは今日までだ。明日からしっかり仕事しろよ」
「はい!」
穂積はその返事を確認したように頷くと、一番端の部屋の前で立ち止まり、ポケットから古びた鍵を出した。それを鍵穴に差し込んでガチャガチャと回す。
「ここが今日からお前の部屋だ。好きに使ってくれ」
ギイ、と音を立てて開かれたドアの先には、広々とした部屋が現れた。木製のベッドが置かれ、そこには真っ白なシーツと布団が整えられて敷かれている。
窓際には薄緑色のカーテンが引かれていて、すぐそばにはやはり木製の机と椅子が置かれていた。その隣にはクローゼット、それからストーブもちゃんとある。恐らくそれは石油で動くタイプのものだ。
かつてこんな立派な部屋には泊まったことは疎か、入ったことすらない。昔読んだ古い推理小説に出て来るか、サスペンス映画の中で観たことがあるくらいだ。穂積はベッドの脇に荷物を置くと、電気を点けた。
「すごい部屋ですね……」
「元々は客人用の部屋として使っていたんだ。綺麗にはしてあるが、何もないぞ。あ、電気はちゃんと通ってるから安心しろ。欲しいものがあったら自分で買い揃えるか、当分は夕に頼め」
「わかりました」
「じゃあオレは下に戻る。いいか、また呼びに来るから、客人が帰るまでは寝るなよ」
そう言い残し、穂積は部屋を足早に出て行った。
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