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「ここだよ」
貴子は雑居ビルの前で足を止めて言った。エレベーターで三階に上がる。看板のようなものはなにも出ていない。飾り気のない無機質なドアを開けて店内に入った。
キッチンをL字型に囲んだカウンター席のみの狭い店。客も店員も誰もおらず、しんと静まり返っている。大きな窓からは穏やかな日差しが差し込み、木製のカウンターテーブルを照らしている。それが放課後の教室のようなノスタルジックな印象を店内に与えていた。
「適当に座って」
彼女はそう言ってからキッチンに入る。そして換気扇の下でタバコを吸い始めた。キッチンにはピカピカに光る寸胴鍋などが並べられている。
「料金は前払いでお願いしてるだけどいい?」
「あ、はい……」
「二十分で三千円、三十分で四千円だけどどうする?」
「二十分で」
僕は三千円を払ってから彼女に言った。
「この店なんだか獣のような匂いがしますね」
「そう? 気のせいじゃない?」
「メニューはなにがあるんですか?」
「ないよ」
「え?」
「料理とかはなにもないの」
「なんで? キッチンがあるじゃないですか」
「ここは場所を借りているだけだから勝手に使えないの」
「ドリンクは?」
「ない」
「じ ゃあ、どうすれば……」
「下に自動販売機があるからそこでなんか適当に缶ジュースでも買ってきて」
なんだそれ……? 僕は少し困惑しながら席を立った。そして店を出ようとしたときに貴子が背後から言った。
「私はミルクティーね」
僕はそれになにも答えずに店を出た。下の通りにあった自動販売機で自分のコーラと貴子のミルクティーを買って店に戻った。貴子はカウンター席に着いていたので僕はその隣に座った。
「これ、ミルクティー」
「ありがとう」
少し震える手でコーラの缶を握ってプルタブを引く。プシュッと炭酸が噴き出す。冷たいコーラを喉に流し込んでふうっと一息ついた。
緊張は少しだけ収まってきている。この店のシステムがよくわからないのだが、とりあえず自己紹介をすることにした。
「あの、僕の名前は東岳雄っていいます。映画の専門学校に通っていて、将来は映画関係の仕事に就きたいと思っていて……」
「へえ……」
将来の抱負やバイトのことなどについて一通り話した。が、貴子はそれになんの興味もなさそうにただ相槌を打つだけだった。
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