赤毛の猫

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 痛いくらいの沈黙が、しばらく続いた。  私は羽杷木がほんとうにやったのか、なんていう疑いを持つよりも先に、そもそもその証言はあてにならないのではないか、と感じたのだが、それは先生も同じだったようだった。  「軍の誰か、ということか、それとも体格のよい誰か、ということかな、とぼくは思うわけだ。だって羽杷木みたいな男に猫の毛がついていたりなんてしたら、ぼくらだけじゃなく絶対に、誰かに気づかれているからね。」  たしかに先生の言うとおり、たとえば先生のような人が衣服に猫の毛をつけていたって誰も気にかけやしないかもしれないが、羽杷木のようにやくざじみた男の衣服に猫の毛が光っていることなどあれば、きっと軍部は騒然だろう。大尉殿が畜生に絆された、だなんて言いだすものすら現れるかもしれない。  ふと見ると、チャコさんは先生の膝の上ですっかりまるくなって、大あくびをしているところだった。羨ましい。  「主が同輩を連れ去ったとは、思っておらんがな。よく似ておるというだけの話でも我のない同輩の毛は逆立つのだ。主とよく似た男があんまりにも街中を、我が物顔で闊歩しておるというのもそうだ。化生になってしまえば多少外れた道理も分かるが、そうでなければ分からんものよ。」  チャコさんのそう言うのに、先生はなんとも感慨深げな顔をしてうんうんと何度も、頷いた。そして、すっかり冷め切って乳の膜すら張りはじめた私の分の汁粉を手に取り、先生はもうひとつ、笑った。  「では始まりだ。調査の日々だ。心躍るような猫諸兄の社会とわれら人間の社会が交わった記念日がまさに今日だ。用意をし給え三橋くん、一日は長いぞ。」  そして、長い長い一週間がはじまった。
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