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先生はそいつに熱心に話しかけ、抱え上げて、手を引っかかれそうになっていた。先生に傷がつくのはすんでのところで阻止できたものの、もしそいつがほんとうに人間の言葉を理解していて、話せるのだとしたら、先生にあれだけ熱心に、きらきらとした目で覗き込まれて、それでも何も答えないというのはあまりにも失礼だと思ったものだった。それだけでも失礼だというのに、抱え上げられたのに驚いたのだか知らないが先生の手をひっかこうとするだなんて。
結局その時点では、赤毛の猫は一言も話さなかったために怪異であるとは断定できなかった。猫も百年生きれば猫又となり、怪異として襖を開けるだの喋るだのという言い伝えはたしかに昔からあるものの、その猫は依頼人の女性曰くは数年前にもらってきたばかりだという。女性の元に来る以前から生きていたのかもしれないから、だなんて、その猫が半野良の生活をしているのをいいことに、女性宅にいない間の猫を見かけたら調査を続行します、と、先生は判断を下したのだった。
猫にまで嫉妬してしまうというのは、ひとりの男としてあまりに情けなくはなかろうか、と、私は菓子屋から譲り受けたあんこを乳鉢ですりつぶし、考える。
そんな折。先生が帰ってくるにはまだずいぶんと早いだろうと油断していた私に、声が掛けられた。
「おい、溜息、」
聞くだけで不愉快な低い声だった。見咎められたばかりだというのに、見咎められたということにまた溜息が洩れた。
「何の用ですか、私が暇でないのは見て分かるでしょう、ねえ、先生のための汁粉を作っているので貴方に構っている余裕はないのですが、」
「あいつは散歩か。」
「えぇそうです、朝のお散歩に出られています。」
きっちりと髪をなでつけ、がっちりとした胸板や肩をいからせて歩く、ただ立っているだけで人を威圧する軍人然とした彼のその立ち振る舞いが、私はとびきりに嫌いなのだ。先生と昔馴染みであるということも、もう爺ィと言っても差し支えない歳であるというのに無駄に衰えない、脳の容量をそれにばかり使っているとしか思えない記憶力で先生との昔の話を逐一おぼえていて、ひけらかすでも、自慢するでもなく私の前で披露するのもまた、気に食わない。
「……あいつの散歩なんて何年ぶりだ、」
ほらみろ、すぐにそういうことを言う。
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