his story 01

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 その日は久しぶりに三人で帰宅していた。だが、途中で遥斗が用事があると別れ、そのままハルと二人きりで帰る事になった。  いつも二人になると口数が減る彼女だが、今日は一段と少ない。  何か考え事でもしてるのか?  会話という会話はしないまま、ハル達の家に着いた。今日はこのまま帰るか、そう思い別れようとした時、彼女から家に上がって欲しいと言われた。 「ーー瑠依、私のお願いの件、やっぱり気持ちは変わらない?」  薄暗い彼女の部屋で、部屋に入るや否や、もう何度断ったか分からない質問をなんの前触れもなくしてきた。  今日は少し様子が違う。  落ち着いているようにも見えるが、焦燥した空気を纏っているようにも感じる。 「……ああ、変わらないよ」 「そう……だよね。実はこの前ね、冗談半分で担当の先生に訊いてみたの、妊娠の事」 「うん、それで何て言われたの?」 「五分五分だって。この数年調子が良いから、今のままで行けば最悪なケースになる確率は高くないかもしれないけど、それは私が妊娠中に体を壊さなかった場合で、本当になんとも言えないって。……まあ、あまり良い顔はされなかったよ。ただ、これはあくまでも今の体調からの判断で、数年先は分からないって」 「……うん」 「それでもね、私、少しでも妊娠出来る確率があるなら子供が欲しいなって思ったの。そして、妊娠するなら今しかないって。自分でもね、なんでこんなに子供が欲しいんだろうって不思議でしょうがないんだけど、でもね、どんなリスクがあるって分かってても、願わずにはいられなくて。恐くても痛くても辛くても、自分の子供に会いたい……」  ハルの声は徐々に小さくなっていき、最後は震えていた。  俺に背を向け、彼女の顔は見えないが、泣いてるのが分かった。  普段のハルからは想像がつかない弱々しい姿に、いても立ってもいられず、そっと手を伸ばし、その華奢な身体を後ろから抱き締めた。 「……瑠依? どうしたの、急に」 「何でこんな事してるか自分でも分かならない。だけど、ハルが凄く辛そうに見えたから……。そんな幼馴染みをどうやって慰めて良いか俺には分からなくて……。ハルは、確かにここにいるのに、消えてしまうんじゃないかって不安になった」  いつの間にか、遥斗とハルの三人で過ごす毎日が当たり前となり、それが自分にとって楽しくもあり大切な時間となっていた。  もし、ハルの願いを断り続けたら、彼女は死ぬまで今のように悲しさと悔しさとでいっぱいの声で弱々しく一人で泣くのだろうか。  それは、果たしてハルにとって幸せな事と言えるのだろうか。素敵な人生だと言っていいものだろうか。  ーー幸せでは、きっと、無いだろう。  大人になるまで生きれるか分からない。  今生きてるのは、たまたま調子が良いだけと、自分の将来の生に対し不安を抱いてるハルにとって、向き合うべき大切な時間は「今」なのだろう。 「……付き合ってるふりしてるせいで、情でもわいた? もしかして、このまま私の願いを聞いてくれる気になったの? なーんてね……」 「一回だけ」 「え?」 「もし、本当に、ハルが覚悟を決めてるなら、一回だけなら良い。でも、その一回だけだ、絶対に。それで出来なかったら大人になるまで妊娠は諦めて欲しい。大人になった時、ハルが本当に好きな人とそういう関係になるのが一番だから」  俺の心は混沌の中で大きく波をたてながら揺れていた。  何が正しいのか、正しくないのか、それを説いた所で答えは出ず、遥斗の言葉を聞いて考え抜いた時、一度だけ、彼女の命ではなく、彼女の願いを一番に考えても良いんじゃないかと思った。  ただ、それには、俺自身にも大きな覚悟が必要だった。だから、決断は簡単に出来るものではなかったのに。  ハルの震える声と肩、いつもの虚勢が払われた背中は、孤独を漂わせ細く見え、その姿に、心が動いた。  一瞬で、覚悟が決まった。  相手の事を想う気持ちは「好き」という気持ちだけではない事を、この時知った。 「……良いの?」 「うん、どんな結果になっても、俺がちゃんと責任をとる。だから、ハルは嘘をつかないで、俺を信じて」 「私からしたお願いだけど、瑠依の人生の負担になっちゃうかもしれないよ?」 「構わない、もう決めた事だから」 「瑠依……」  俺達の間に愛というものは存在しないかもしれない。しかし、愛よりも大事なものをハルは願っており、そして俺は彼女の願いが叶い、ハルの人生が後悔で埋もれない事を願ってる。  遥斗と同じように、遥香という一人の女性の生き方を守りたかったのだ。  夕暮れの中で、甘い空気など纏う事なく、俺達は身体を重ねた。最初で最後の秘め事の中、熱に溺れる事なく見詰めたハルの目からは沢山の涙が溢れ、長い間それは止まる事がなかった。  夕暮れの朱が、部屋を照らし、夜へと導く。  天気予報通り、夕方から雨が降り出し、その静かな音は、明け方まで響き続けた。  
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