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第三章 独りは辛いよ
都心部に安アパートを見つけ、月々十万程度の清掃の仕事にありついて、生活の基盤は得たものの、食っていくことがやっとの生活。それに加えて、当然のことながら清掃が出来るのは人が活動しない時間帯、つまりは夜勤。昼夜逆転の生活は、不慣れな祐一には心底堪えた。仕事帰りの電車で、見知らぬ土地に連れて行かれる日もしばしばだった。
「お客さん、お客さん、終点ですよ。起きてください」
「美紗緒、オ、オレ、また会社、遅刻かよ・・・」
目を開けると、そこにはあるのは、あるべき妻の姿でなく、見慣れぬ駅員の姿であった。妻との共通点は女性であるという一点だけ。
「安心して下さい。この電車は環状線ですから。お客さんが何周も乗っておられるので心配になって声を掛けさせてもらっただけです」
何を馬鹿なことを考えているんだオレは。妻も仕事もとっくに失っている身じゃないか。それに、乗り過ごし以前に、乗り間違えるって、最低だな、オレ。少しはしっかりしろよ、オレ。この頃おかしいぞ、オレ。
そんなわけで、祐一が最寄り駅に着いた時には昼過ぎになっていた。改札を出ると、雲行きが俄かに怪しくなってきた。一雨来るかなと手のひらをかざすと、ポツリと冷たいものが手にあたった。そして、またポツリ。
その間隔は徐々に縮まっているように思えた。
「いけねえ、この分だと、うちに辿りつく前にずぶ濡れだ。どこかで雨宿りするしかねえなあ」
周囲を見渡すと、「うまいもん屋」の看板が目に留まった。
「うまいもん屋か。たまには、うまいもん食いてえなあ・・・」何気なく口にしたその一言で、忘却の彼方の記憶が呼び起こされた。
「うまいもん食いたいなあ、うまいもんないなあ・・・」
「うまいもん欲しいなら、自分で買ってくればいいだろ」
祐一はそのたびに、突っぱねた返事を繰り返した。胃がんで胃を全摘出し、食欲が著しく減衰していた母親。なぜ、ろくに食えもしないのに食べたがるのか、食欲が減衰していたが故にうまいもんにこだわるのか。お金も時間もあって、近所のスーパーやコンビニまで歩いていける体力だってあるのに。なぜ、呪文のように毎日、毎晩、無意味な発言を繰り返すのか。その時は全く分からなかった。
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