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第七章 人生はハッピーエンドで終わらない
「あたしや、嫁にイジメられてるから始終緊張しとる。だから絶対、ボケへんぞ」それが母の口癖であり、ボケない自分への戒めでもあった。
でも、年齢は嘘をつかない。後期高齢者とはよくいったものだ。七十五歳を超えたあたりから徐々に変調が現れ出した。俗にいう認知症の発症だ。
それまで、石田家の正月のおせち料理の買い付けは母が握っていた。嫁である美紗緒がお雑煮を作り、母がおせち料理を提供することで、女二人世帯の絶妙な均衡が図られていた。毎年、何年にも渡ってこの習わしは続き、未来永劫も続くと思われた。誰しも未来は今日の連続であると思いたいし、誰しもそう思う。
でも、目に見えぬ小さな変化は日々積み重なって、やがて大きな変化となって、突如、その姿を目の前に現す。人はその時、初めて気づくのである。いつもと違う時代の到来を。
その時も、そうであった。いつもの年と変わりなく母はおせち料理の買い付けに行った。だが、認知症が進行したせいで、発注することも発注契約したことも記憶に残らず、うまく買い付けできなかった。
それでも、母は懲りずに何度もタクシーで買い付け先に足を運んだ。「たかがおせち料理なのに・・・」祐一には、おせち料理の買い付けに執着する母の行動が解せなかった。
しかし、その母の執着は無駄骨に終わった。その年のおせち料理の買い付けは嫁が行い、それ以降、おせち料理の買い付け権は嫁に移った。
「たかがおせち料理、されどおせち料理・・・」
ささいな事ではあるが、それは石田家の女二人世帯の均衡が破られた事件であった。
この時を境に母の嫁に対する立場は急速に劣勢に陥って行った。おそらく母はこのことを分かっていて懸命に阻止しようとしていたのだろう。その事件が病気を誘発したのか、病気が事件を誘発したのか定ではないが、翌年の春、母は胃がんを併発した。
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