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「お願い。あの人のいないこの世になど生きて居たくない」
「その願いは聞けません。あなたを死なせたくなんてない」
私は彼女の目を塞ぎ、耳元でまじないを囁いた。暴れていた彼女の動きが少し鈍くなり、とうとう彼女は意識を失って布団に倒れた。
取りあえず鎮めることは出来たものの、これでは一時しのぎにしかならない。
眠る彼女を目の前に、私は葛藤した。
このまま後を追わせたほうが、彼女の幸せなのかもしれない。だが、それは兄上が望むことなのか?
――いや、違う。彼女を失いたくないのは私だ。私の中の黒い欲望が囁く。今なら、彼女が手に入る。このまま自分の物にしてしまえ、と。
彼女の笑顔を瞬時に取り戻し、私に笑顔を向けてくれる方法があるではないか。それが、彼女の心を壊す禁断の術であったとしても。
私は大人しくなった彼女の耳元で囁いた。
「私の目を見て」
半分意識の無い彼女は素直に私の言葉に従った。
「私が、誰に見えますか」
「大納言さま……」
「もう一度、じっと良く見て」
私は彼女の耳元で囁きかけた。
「右大臣、さま?……でも、あのひとは、もう」
「ほら、私を良く見てください。私は誰?」
「右大臣さま……」
虚ろな瞳の彼女は、ぼんやりとしたままでそう言った。
「ええ、そうですよ。疲れたでしょう。少しお眠り」
もう一度優しく頭を撫で、彼女の意識に優しく蓋をする。兄上の記憶が消えなくても、彼女が本当の意味で私を見てくれることはなくても、これでまた笑顔を見せてくれる。
「こうするしか、無かった、これは仕方のないことだ」
自分に言い聞かせるように呟いても、誰も返事をするものなどいるはずがない。
いつか、彼女に本当の事を伝えなくてはならないとはずっと思っていた。だが言えなかった。
私自身、兄上の死を認めたくなかったことももちろんある。しかし、心の奥底にしまっていたはずの感情は日に日に大きくなっていった。それが偽りの笑顔だったとしても、彼女の隣は心地よかった。
上げられた御簾から枝垂桜が風に乗って舞い込む。ひらひらと落ち行く花弁をつかみ取ろうとしても手は虚空を掻くだけだ。
今日も彼女は、ずっと私が手に入れたかったあの笑顔でいう。
「愛しています、右大臣さま」
「ええ、私もですよ」
応えてやれば、彼女の瞳が嬉しげに細められる。ああ、狂っているのは彼女なのか、それとも、私か。
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