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もしも、あの時に戻れたら。人は誰しもそんなことを考える。それは歌会でいい歌を思い付かずに杯が流れてしまったというような些細なことかもしれないし、大切な人がなくなってしまったというような悲劇かもしれない。
もし、あの日に戻れたら。私は同じ過ちを繰り返すことをしない、と断言できるだろうか。上げた簾から覗く空は今日もよく晴れている。窓を開けると水仙の鮮やかな香りが広がった。
「いい香りですね」
「ええ、本当に」
布団の上に横たわる彼女の白い頬に窓からの日差しが差し込んで、より一層輝いて見える。
「少し、外に出てみようかしら」
「いけません、体に障りますよ」
「大丈夫。少しだけですから、ね?」
彼女は笑い、陶器のような白い頬に血の気が差した。
「わかりました。少しだけですよ?」
愛しい彼女にそう言われてしまえば逆らえない。軽い体を抱え上げ、縁側に運ぶ。
「そこまでしなくても」
毎回恥らって頬を染める彼女の様子を見るとつい頬がゆるむ。梅重の着物は色の白い彼女に良く映えて、一層美しく見えた。
「長く歩くと、また倒れてしまうでしょう?」
「意地悪」
頬を膨らませた彼女を抱えたまま廊下に出たところで、運悪く薬師に鉢合わせた。失念していたが、今日は往診の日だったか。軽く会釈をすれば、薬師は笑みを浮かべながらのんきに言った。
「これはこれは。甲斐甲斐しいことで」
「世話焼きな性分でして」
私が無言で軽く礼をすると、薬師は微笑んだ。
「外に出たがるのは、良い兆候ですよ。ご安心なさってください」
「そうだと良いのですが」
そこまで言うと薬師は私の耳元に口を近づけ、彼女に聞こえないように小さな声で囁いた。
「もう、良いのではないですか? このままでは救われませんよ、姫君も……そして、あなたも」
薬師は私をいたわしげに見たきりでそれ以上は何も言わない。
「少し、散歩をしてまいります。しばらくしたら戻りますので」
私は逃げるようにその場を後にした。
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