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庭に出れば、中庭に植えてある水仙の甘く華やかな香りがパッと弾ける。彼女は目を閉じて大きく深呼吸した。
「この香りを閉じ込めてそのまま持って帰りたいくらいだわ」
「ふふ、その昔、水仙は唐伝来のとても貴重な花だったのです。先人達もその香りに魅せられたのかもしれませんね」
彼女はきょとんとして大きな目を見開いた。
「どうしたの、急に。香りがする花と言えば梔子しか分からなかったあなたがそんなことまで」
「……」
一瞬、答えにつまってしまった。春先とはいえ冷たい風が葉を揺らして吹き抜ける。
「もう、そう言われたときは君のために覚えた、とでも言えばいいのに。そういうところは変わらないのね」
彼女は不満げに口を尖らせた。
「それは申し訳ありません」
「すぐ謝るなんてつまらないわ、あなたらしくもない」
「面目ない」
たわいのない話をしながら手押し車をゆっくりと押していると、突然、彼女が庭の木を指さして小さく声をあげた。
「みて!蕾だわ!」
見てみれば、枝垂桜がつぼみをつけていた。
「もう春の訪れも近いのですな」
「ええ。本当に」
彼女は目を閉じて一つ息をついた。白い息がふわり、と彼女の赤い唇から立ち上る。
「いつだったか、二人で抜け出してお花見をしたでしょ? あなたが、きみは馬に乗るのが下手だから望月に馬車を引かせよう、なんて言い出すものだから大変なことになって」
そう言うと彼女はさもおかしそうに声を上げて笑った。
「ええ……」
煮え切らない返事をする私にしびれを切らしたのか、彼女の澄んだ瞳が怪訝そうに細められた。私は慌てて笑顔を作り、枝垂桜を一枝折取って彼女に渡した。
「まだつぼみですが、部屋に活けましょう。そうすれば少しは気も紛れるでしょうし」
「ありがとう」
はにかんだように笑う彼女はやはり美しく、弥勒のようだった。差し上げた桜の枝を日の光に翳しながら、彼女はしんみりと口にした。
「もうあの頃のように気軽に遠出をすることもできないのね」
物の怪の襲撃が度重なり、都の外の治安はこのところ一気に悪くなっている。
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