3人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
「何事ですか!」
「右大臣さまが急に! あんなことに、私、見ていることしかできなくて」
「分かりました。すぐ向かいます」
私はすぐさま踵を返した。彼女の屋敷のすぐ上空には黒い雲が渦巻き始めている。
(物の怪が来たか)
部屋の前につくと、姫君が廊下で狂ったように戸を叩いていた。
「お願いです、ここを開けて!」
「駄目だ、入るな」
私は部屋の外から大きな声で叫んだ。
「兄上! 私です!」
「俺は、もう駄目だ、姫君を助けてくれ、頼む!」
中から戸を押さえていた力が突然消えた。開けて中に入ると、変わり果てた姿の兄上殿がいた。眼は今や紅く染まり、口からは人のものとは思えぬ牙が突き出ている。 駆け寄ろうとする彼女を抱きとめた。
「近寄るな!今の俺はきみを殺してしまうかもしれない」
鬼に憑かれた兄上は、ゆっくりこちらに向かってくる。
「オンナ……コロシ……テ……ヤル……」
「兄上!」
彼女を背に庇い、私は悪霊退散の札を取り出した。兄上が苦しそうに呻く。
「やめて! 彼を傷付けないで」
「……こうなればもう致し方ありません」
「きっと何か方法があるはずよ、お願い、戻ってきて」
彼女の悲痛な声が響く。一瞬、兄上の目に光が戻った。
それは一瞬の出来事だった。兄上は、懐刀を取り出し、自分の胸に突き立てた 魔物のような唸り声と共に、取り憑いていた鬼は消滅した。禍々しい空気も消え去る。静寂を埋めるように、庭からは秋の虫の声が涼やかに響く。遺された鉄の欠片を手に呆然と佇む彼女と声をかけることも出来ない私を、ようやく登りはじめた月が冷たく照らしていた。
瘴気にあてられたらしい姫君もしばらくは朦朧としていたけれど、不幸中の幸いか命に別状はなく、暫くすると意識を取り戻した。
「目覚めてくださってよかったです。兄上は、もう……」
「嘘よ」
「姫君……」
?しばらくの間、茫然と目を見開いたまま涙を流して悲嘆にくれているように見えたが、彼女ははっきりと意思をもってこう言った。
「私も後を追います」
「何をおっしゃいますか」
彼女が大きく口を開いた。舌を噛むつもりだ、と分かった私は、とっさに開いた口の中に指を入れた。
鋭い痛みと共に指から血が流れる。
「なりません!」
「嫌よ、離してください!」
「落ち着いてください、後生ですから」
最初のコメントを投稿しよう!