第一幕 月に降りた腕時計

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「当店の商品は、ここにある物が全てでございます……ここになければ、ないかと……」  時花は改めてオメガのコーナーを見渡した。  ショー・ケースに飾られた腕時計は皆、店長が陳列したものである。在庫はこれっきりだ。小さな店なので倉庫など存在しない。品出ししていないものはせいぜい、店長が下取りした未調整品くらいだろう。 「一九六九年製のスピードマスターってさ、相場はどれくらいだ?」 「ええと……価格は全て、そちらの値札にある通りです」  具体的に例示できない時花が歯がゆかった。会話にならない。  いっそ店長に助けを求めようかとも考えたが、男性客はショー・ケースに見入って文句を返さなかったので、もう少しだけ頑張ってみることにした。 「おお! ここにあるじゃんか、一九六九年のモデル!」垂涎(すいぜん)する男性客。「しかもアニバーサリーの復刻品じゃなく、マジモンの一九六九年に製造されたモデルが!」 「あっ、ありました? お気に召しましたでしょうか……?」  客が興奮している。  そこに置かれていたのは、金色の文字盤が(まぶ)しいアンティークな腕時計だった。  他の品とはやや離れた位置に、目玉商品のごとき演出で安置されている。名札にも一九六九年製と銘打たれており、気になる値段は――。 「えーと。に、にひゃくろくじゅうよんまん円、でございますぅ……」  ――時花は自分で読みながら、声が先細った。  二六四万円。  新社会人の平均年収がそのくらいだろうか。それが腕時計一個の価格だった。  他のオメガは、安い物だと一〇万円からあり、最も多い価格帯は三〇~六〇万円だ。さらに値打ちがあるものは一千万円を超えるが、二〇〇万クラスでも充分に破格である。ましてや、場末の小さな店舗には間違いなく不釣り合いな大物だ。 「ガチで一九六九年のスピードマスターだぜ!」ショー・ケースにかじり付く客。「これ、まだ買い手は付いてないよな!」 「あ、あの、お客様、ケース上に手を置かないで下さい……」 「答えろよ! まだ売れてないよな!?」 「はいっ。買い手が付いた品は店頭からお下げしますので、ここにあるのは売り物です」 「そうか……よし!」  まさか、買うのか?  時花はごくりと固唾を飲んだ。
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