第一幕 月に降りた腕時計

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 二六四万円もの腕時計を――これのどこにそんな価値があるのかは彼女には判らないが――買いたがる好事家が存在したという事実に、時花はカルチャー・ショックを受けた。  ましてや庶民的な服装の、安っぽい若者がだ。 「この時計さ! いつか俺が買う日まで、誰にも売らずに取り置きしといてくれよな!」  …………。  …………。 「あれ?」  ところが。  男性客の要求は、購入を決断するものではなかった。  一応、買うつもりのようだが、遠い未来の話らしい。肩透かしにも程がある。 「こ、購入のご予約ということでしょうか? 取り置きですと前金が必要ですが……」 「金はとりあえず、来年の七月二〇日までにはそろえる予定だ!」  なぜか日時が提示された。  しかし、七月と言えば今から半年以上も先ではないか。現在は初冬、季節がまるで正反対だ。取り置きするにしても期間が長すぎる。 「あのぅ、お客様」申し訳なさそうに進言する時花。「どうしても欲しいのであれば、ローンを組むことも可能でございます。クレジットカードをご提示していただければ――」 「俺、まだ学生でさ。家の事情で一度スマホ代を滞納しちまったせいで信用情報がなくてクレカ作れないし、ローンも組めないんだ」 「……あー」  時花は危うく脱力しかけた。  男性客は二〇歳そこそこの若者だ。家の事情で滞納ということは、貧困家庭なのか? (なぜそんな家庭の人が、一九六九年の値打ちモノを欲しがるんでしょう?)  時花には見当も付かなかった。  とにかく、無理なものは無理だと断るしかない。
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