第一幕 月に降りた腕時計

26/40

63人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
 ほんのわずかだが、ばつが悪そうに顔を背けたのだ。その数秒だけ、彼の取り得である巧笑(こうしょう)()せていた。  沈鬱に塞ぎ込んだような、過去のトラウマをほじくり返されたかのごとき(うれ)い。 「あっ店長、何かお気に障りましたか……?」  慌てて時花は取り繕った。  人の過去を詮索するのは、しばしば地雷を踏む。時花自身、ニートだった空白期間に触れられるのは嫌だし、店長は聞かずに採用してくれた。その優しさを改めて痛感する。  店長だってアラサーの大人だ。苦い経験の一つや二つは持っていても不思議はない。  店長はしばらく逡巡していたが、やがて観念したらしく、簡潔に身の上を語り始めた。 「以前勤めていた時計メーカーは、大企業ゆえに融通が利かない所がありました。僕と()りが合わなかったのです……」  ――課長、新商品の機能について苦情が四件、届いていますが――  ――あぁ? それっぽっち無視しろ! 少数の意見なんぞ、ただのクレーマーだ! ちまちま対応してたら割に合わないだろうが! 人員の工数を考えて働けよ!―― 「……僕は、そんな空気がとても窮屈(きゅうくつ)でした。ごく少数の枝葉末節にかまける暇はなく、大多数が望む要求にのみ対応する……それは会社としては正しいのでしょう。ですが、僕は顧客一人一人の意見を、見て見ぬ振りは出来なかったのです」  少数意見だって、大切なお客様なのだから。 「それで、退職を……?」 「はい。僕はお客様全員の声に耳を傾けたいと思いました。そのためには自分が直接、お客様と触れ合う場が必要でした。だから個人で店を構えたのです」  それは大企業に比べたら、些末(さまつ)な規模でしかない。  自営業が切り盛りする客数など、大企業にとっては誤差の範疇でしかないだろう。  されど。  店長は、自分を頼って来る人々を――見落とされがちな少人数の本音を――無碍(むげ)に扱いたくなかった。力になれるのなら、なりたいと願った。 「せめて僕の目にとまる顧客だけでも、苦情や不具合を解きほぐしたい(・・・・・・・)……世界の全てを救うのは無理だとしても、僕の周辺だけなら目が行き届くでしょう?」  こうして、この店が生まれたのだ。  時計の悩みを解きほぐす、知る人ぞ知る古物時計店が――。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加