第一幕 月に降りた腕時計

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 時計店。  ここが時花の目的地だ。  ガラス越しに覗ける店内は、淡い間接照明に照らされたショー・ケースの中で腕時計がずらりと陳列されている。  どれもブランド品ばかりだ。一つで何十万円……いや、ものによっては桁が足りない。何百万円もする逸品や、一千万円を超える腕時計も存在する。  時花は立ち止まり、硬直し、背中に冷や汗をしたたらせた。 (このお店で合ってますね……一応、時計店の面接を受けるに当たって、有名な時計メーカーやブランド名くらいは予習して来ましたけど……)  面接先の業務内容を前もって調べておくのは、基本中の基本だ。  何も知らずにのこのこ面接へ行こうものなら、本当にここで働く気があるのかと疑われてしまう。仕事への意欲を示す上でも、予備知識は不可欠だ。 (あの棚はロレックスですね。あっちはオメガ。ブライトリング、IWC……スイスの超一流メーカーばかりです! アメリカのハミルトン、ドイツのランゲ&ゾーネもありますね。店名に『古物』と付いてる通り、アンティークな中古品が多いです)  暗記なら得意だった。勉強だけは出来る所以(ゆえん)だ。 『ブランド時計の下取りも承っております』  看板の下には、そんな文言も踊っていた。  やはり中古売買が中心なのだ。質屋も兼ねているのだろう。 (一流大手商社から、場末の小売り店へ転職……と聞くと格落ち感は否めませんけど、私にはこれくらいのリスタートが身の丈に合ってる気がします)  決して自営業を馬鹿にしているわけではないが、時花はそんなことを考える。  高級品を扱う場末の店。恐らく客足は少なかろう。この店は薄利多売ではなく、少ない客から高い代金を支払わせて利益を得るビジネス・モデルだ。  客足が少ないなら、のんびり屋の時花にも務まりそうだった。経理もめまぐるしい大手ではパンクしたが、この店の規模ならば落ち着いて能力を発揮できる……と信じたい。
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