第一幕 月に降りた腕時計

6/40
前へ
/42ページ
次へ
「こんにちは、失礼します」  ガラス張りの回転扉が入口だった。  中へ押し開けると、ドアベルが軽やかに鳴り響く。  店内はとても落ち着いている。開店前のため、入口には『準備中』の(ふだ)が吊るされていたが、この時間に面接の予約を入れていたので、時花は躊躇しない。  ドアの鍵も開いており、店側も彼女の到来を待っていたことが(うかが)える。 「やぁ、いらっしゃいませ」  爽やかな甘い美声が、店の奥から返って来た。  耳に心地よいアルトの響きと、静かだが店内一帯に浸透する声量。それだけで時花は、声の主が対人能力に優れていることを察知した。  聞きやすい声色と、接客に欠かせない優しいトーン。  レジスターの前に立っていた一人の青年が、にっこりと微笑みかけた。 (この方が店長さんでしょうか?)  時花はぺこりとお辞儀する。 「面接の予約を入れていた、風師時花と申しますっ」 「はい、お待ちしておりました」  青年は笑顔を絶やさない。  人懐っこい微笑のまま、器用に唇だけ動かしている。営業スマイルというやつか。恐るべき表情筋の維持である。  成人男性の平均身長よりやや高い程度の彼は、時花が見上げやすい角度だった。  高すぎないのが良い。長身すぎる男は威圧感があって怖い、と嫌がる女性も居る。  髪の色は栗毛(くりげ)で、(あご)が細い優男だ。  なで肩で、胸板も薄い。腰から足にかけてスラリと締まっている。実にスマートだ。  服装はジョルジオ・アルマーニのダブルスーツで、ボタンをしっかり()めている。ネクタイもきつめだ。高級品を取り扱う手前、店員の身なりも正装が求められるのか。  青年の左手首には、白銀に煌めく高価そうな腕時計が装着されていた。自身がモデルとなって、来客に商品をアピールするのだろう。それに、時計店の店主が腕時計を付けていなかったら拍子抜けだし、安物の時計だったら台なしだ。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加