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そっと。だが、深く。
昨夜、寝入った智の唇に触れた瞬間に、これまで辛うじて保っていた抑制が、千切れた鎖のようにはずれた。
軽く触れるだけだったはずなのに、タケルはわずかの隙間から舌を捻じ込み、智の口腔を味わっていた。その柔らかさと熱と、智の内側へ入っていく感覚に痺れた。
その痺れは未だ余韻のように続いていて、それからずっと地に足がつかない。頑なに守っていた理性の一角が崩れたが最後、あれほど強固だったはずの鎖は、すぐにでも途切れそうなほど弱っていた。
後ろで動く気配がして、ぼそっと智の声が追いついた。
「もう一度、寝る」
タケルは肩から力を抜いた。
「ああ、その方がいい。俺は適当にしてるから」
寝室のドアがしまり、タケルは息を吐き出した。
スイッチが切れ、ケトルの中でお湯がくつくつと沸騰している。飲むあてもないのに沸かしたお湯を、タケルは所在なげに見つめていた。
そこからの時間は、いやに早くすすみ、タケルは特に何をするでもないまま、智の部屋でぼんやりしていた。大きめの窓にうつる空の色だけが刻々と変わっていく。
次に智が起き出してきたときはすっかり日暮れで、二人で勝谷が送ってきたそうめんを温かいにゅうめんにして食べた頃には月が昇っていた。智はいつになく口数が少なく、時々、何かを思案しているように上の空になる。
夏の夜は虫の声が騒々しい。
静かな部屋に、はやしたてるように、競い合って鈴虫が鳴く。
「智、せっかくだから花火でもしてみるか。今夜なら月明かりでじゅうぶん明るいし」
タケルは終始、いつもの雰囲気を壊さないように、最大の注意をはらっていた。だが、長年ずっとやってきたことなのに、今日は緊張で息苦しい。
花火を口実に束の間、コンビニに逃げるつもりだった。立ち上がり、財布をつかんだところで、智が言った。
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