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闇月夜
タケルは一睡もしないまま、明け方が近づく気配を感じていた。
部屋はシンとして、つい数時間前の激情を忘れてしまったように静まり返っている。
タケルは、フローリングの床に座って、ぼんやりとソファーを見つめていた。
あそこに智を引きずり倒して、そして抑え込むようにして身体を奪ったことは、夢じゃない。
泥酔してつぶれた智が心配で、タケルは予定していた帰国をのばした。国際電話をかけ、嘘を駆使して休みを伸ばし、仕事先や関係者に謝罪と新たな段取りをする。
午後もとっぷり回った頃、ようやく智が起きだしてきて、部屋に残っていたタケルにぎょっとした。
「帰るんじゃなかったのか」
「名残惜しくてね」
タケルはできるだけさらりと言ったつもりだったが、智は戸惑いをにじませて、目をそらした。無意識かもしれないが、右手が口元を押さえている。
痕なんて残るはずもないのに、智の赤味のさした唇に鼓動が激しくなった。
タケルは素知らぬふりで、智に声をかけた。
「なに? どうかした?」
「……いや、別に」
覚えているわけがない。タケルは自分に言い聞かせた。
昨夜の智はタケルの腕の中でピクリとも動かなかった。タケルが声をかけても口づけをしても、世界を遮断したみたいな深い眠りの中にいたのだ。
「仕事はいいのか」
責めるような智の問いかけに、タケルは明るく答える。
「うん、連絡した。大丈夫だよ、俺、普段真面目にやってるから」
智が顔を上げると、今度はタケルが背を向ける。
そのままキッチンの電気ケトルに水を入れて、お湯をわかし、昨日から放置したままのカップを洗いはじめた。
智の家は食器も数えるほどしかない。カップも、自分の分と、時々寝泊りする勝谷のものと、何にでも代用のきく大き目のマグカップと。
背中に智の視線を感じる。だが、目が合えば、開けてはならない扉が開く。そんな気がして振り返れない。
だが、もうとっくにタケルは踏み出してはいけない領域に入っていた。
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