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山の稜線を超えて朝日がようやく届く頃だった。見渡す限りの大きな湖面に張った分厚い氷の上に、一人の若い女がいるのを弥彦は見つけた。
弥彦は最初、ふつうの娘だと思い、それから山の怪かと疑った。
見た目は白い振袖を着た女。それがこんな時間に一人でいるのはおかしい。近くには民家もないはずだし、狩りに来た格好とも思えない。
何をしているんだ――弥彦は木の陰から猟銃を握って見守った。
娘は彼に気づいた風もなく、氷の上を楽しそうにスイスイ滑ると、湖の真ん中で止まった。
きらめく淡い日差しを受けて、両手を鳥の羽のように広げて微笑む。
ふわりと舞った。
いや、足は氷についている。滑っているのだ。しかしその動きはあまりに軽く滑らかで、空を飛んでいるのかと錯覚する。体重さえ感じさせない身のこなし。ともすれば空中に浮かんでしまいそうだ。
緩やかに大きな円を描いて滑ったかと思うと、その場でくるくると回り出す。一歩跳び上がり、着地した片足で流れるように滑ると、今度は急に向きを変えて回転する。全身を伸ばして天を仰いだかと思えば、頭を抱えて膝を折る。不思議な踊りだった。
いずれにしても人間ではない――弥彦は思った。
ひょっとしたら、湖の精霊だろうか。見ているのを気づかれたら祟られるかもしれない。物音を立てずに立ち去ろうとしたそのとき、不意にこちらへ近づいてきた娘の顔が正面から目に入った。
――透けるように白い肌。瑞々しく黒い瞳。その瞳が、弥彦を捉えている。
弥彦は動けなかった。束の間我を忘れて、隠れることもせずに見つめた。手前で旋回した娘の長い髪が艶やかに空を切る。
――美しい。
早朝の寒気にさらされている頬が熱くなる。
娘は小さな円を描きながら、片手である方向を指した。すぐにはその仕草に気づかなかった弥彦に、何度も同じ動きをして見せる。ようやく気づいた弥彦がそちらに目を遣り、戻したときには娘の姿は消えていた。
繊細な指先が示した辺りへ行く。数日前、弥彦がしかけた罠に、一羽の白鳥がかかっていた。
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