2人が本棚に入れています
本棚に追加
【専業主婦・梨沙子の物語】
梨沙子はリュックにマタニティーマークが付けたままだったことを、今、思い出した。
スーツ姿の男性が初老の女性に譲ろうとする席を、もうマタニティーマークを付けている資格のない自分に譲ろうとしてくれている。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「あ、あの、私・・・」
梨沙子は少し動揺して、初老の女性に説明をしようとしたが、初老の女性が優しく遮るように梨沙子にしか聞こえないような小声で囁いた。
「ありがとうね。でも私ね、痔を抱えているの。だから座れないの。殿方にこんなこと言えないでしょ」
初老の女性は、梨沙子に囁くと恥ずかしそうに少し下を向いた。
もう資格のない自分が座ることに罪悪感を感じながらも、梨沙子はスーツ姿の男性と初老の女性の親切に甘え、シートに座ることにした。
中央特快が四ツ谷駅に到着すると、スーツ姿の男性は軽く会釈をしてホームへと降りていった。梨沙子は目の前に立つ初老の女性と視線を合わせ、微笑みを交わした。
この初老の女性は痔なんて患ってはいないのだろう。きっと梨沙子を座らせるための優しい嘘をついてくれたのだろうと感じた。
車窓を眺めながら、梨沙子は、もう一度、不妊治療を続けてみようと思える自分に変わっていた。
中央特快は、いつものように都会の中を走っていく。
最初のコメントを投稿しよう!