昔のはなし

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昔のはなし

嵐の朝。もともと人気の少ない境内には、勿論訪問者などいない、だろうと思っていたのだが。寺の前に佇む人影が1つ。大きな傘をさした小さな人が、そこには立っていた。俺はうるさい雨音を掻き分けながら、ゆっくりとその人影に近づく。 「山田、さん?」 俺がそう声をかけると、山田さんはお寺に向けていた視線を外し、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。そして、その目が俺の姿を初めて真っ直ぐ捉えた時、なぜか俺の胸はどくんと大きな音を立てた気がした。 山田さんは、最近うちのお寺に来る信徒さん。うちにくる人にしては若く、珍しかったため、印象に残っていた。そんな山田さんは、最初は父さんの説法を後ろの方で静かに聞いていた。でもだんだんと父さんに直接声をかけ、一対一で説法を聞くようになった。仏教に興味があるようなタイプに見えない山田さんが、父さんに頻繁に会いに来る姿は物珍しく、いつのまにか目で追っていた。しかし、山田さんは俺には全く興味がないようで、他の信徒さんは若いお坊さんが珍しいと、よく声をかけてくれたのだが、山田さんはそんな事はなく、俺が挨拶をしても静かに会釈をするだけで、目も合わせてくれなかった。 だから、嵐の中に佇む人影が山田さんだと気づいた時、声をかけるか躊躇った。しかし、嵐のせいで傘があおられ、山田さんの服が所々濡れていた。そんな姿を見て、声をかけずにはいられなかった。 「良かったら、中に入りませんか?タオルをお貸ししますよ」 「...光道様は、今日はいらっしゃいますか?」 今まで父さんにしか向けられなかったその綺麗な声が、俺に向けられている。激しい雨音にかき消されながらも、真のある透明感のある声。なぜだかまた俺の心臓が一度大きくなった。それにしても、俺の問いには答えず、父さんの在否を確認して来るところが山田さんらしい。 「父さんは..あ、いえ。住職は昨日から遠方のお寺の方の手伝いに行っております」 「そう、ですか」 俺がそう答えると、山田さんは俺から視線を逸らし、また前へと視線を戻した。 山田さんはさっきの俺の問いに答えるのを忘れてしまったのか、そこから動かず、何も話さない。俺も一度声をかけてしまった手前、答えをもらう前に立ち去るのも失礼かと思い、そこから動かず、山田さんの隣で見慣れたお寺を見つめるという、不思議な光景になった。
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