思い出の眠る場所

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 教室、図書室、音楽室、理科家庭科室に、給食室…ひとつひとつ確かめるように見て回れば、幼い日の思い出がそこここに散らばっている。  あの頃、滅多に立ち入ることのなかった校長室には、歴代の校長先生とPTA会長の写真が飾られていて、その連なりの長さに、母校の歴史を感じた。 「まだ、嫁さんはもらってないんだろ?」 (ああ。ここでもまたその話題か)  三十路に入る頃から、誰彼となく、まるでそれが世界の共通語であるかのように振られる話ではあった。  悪気なく訊ねる友人には、確かいくらか年上の妻と、3人の子どもがいるはずだ。  この手の話題の矛先が向く度、はじめの頃はうんざりもしたものだが、一周回って、もはや何の感慨も湧いては来ない。  こういうときの定型文はとうに心得ていた。 「甲斐性がなくてな」 「いいんだけどさ。小父さんと小母さんは結構残念そうだったなぁ。お前、一人息子だし」 「親不孝だったなとは――思ってるよ」  両親を、愛していた。  愛情を注いでもらったのと同じぶんだけ、返したかった。  でも結局、地元に戻りもせずに就職し、新たな家族を迎えることもなく、どちらの最期も看取ることはできなかった。  父母に返しきれなかった恩だけが、ただ、心残りだ。 「それで?しばらくはこっちにいられるのか?」 「東京の家は年度末で引き払ったし、もう完全にこっちの住人さ」  両親も親戚も亡くし、妻も子もなく天涯孤独。  失うものは何もない。  会社や職場の面々は惜しんでくれたし、それがありがたくもあったが、もう充分だと思った。  思ったら、無性に帰りたくなったのだ。  この、山と森しかないないような、けれど大切なものがたくさんあった、この場所に。 「良いタイミングだったなぁ、千尋(ちひろ)。今年は式年祭もあるし」 「――そうだな」  大切なものが確かにあった。  それでも。 「お祭りの前には帰ってきたかったんだ。どうしても」  それらを心のままに顧みることを諦めてでも、守りたかった約束が――あったのだ。
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