開幕

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次の日も、またその次の日も、私は鬼のもとへと赴き、鬼の要望に応え続けた。かつての鬼という存在への興味はすっかりと消え失せ、同じく生を全うしようとする者への同情と憐憫がすべての原動力となっていた。一週間ほど鬼へ食べ物を運び続けるうちにかつて修行僧のような華奢な面持ちであった鬼の姿は徐々に肉付けされ、今にも死にそうに、すべてを吸い込まれてしまっていたような不健康な肢体は勇猛たるものとは決して言えないものの、目を向けられるほどのものにまでは回復していた。とりあえず、餓死という事態は避けられそうで安心した。それと同時に、鬼は私が赴くたびに様々な話を私に持ち掛けてくれた。それは、私が今まで人間の立場からは決して気付くことのできなかった人間の劣悪さ、野蛮さについての話だった。鬼は、どうやら人間より大変な長寿であり、三〇〇年は生きているらしく、人間の傲慢による環境破壊、それによって奪われた鬼の住処、立場に耳を隆向けていくうちに、初めは半信半疑であったが、徐々にそれが身近な話題に感じられるようになると同時にそれが現実味を帯びて、いままでこのかわいそうな鬼を痛めつけ、陥れてきた人間自体への憤りへと変わっていた。同じ人間だから気が付かなかった、からではなく、その原罪から逃れようと無意識にその問題から目を背けていたのではないかという自己嫌悪、猜疑心に苛まれるようになった。故に、鬼が近くの家屋から生活品を奪うように指示してもすんなりとそれに従うようになった。それは私が人間という者への根本的懐疑があったから、徐々に罪悪感が薄れつつあったからで、それよりかは恵まれずにも懸命に生きている鬼の思念、気概の方がよほど純粋で守る価値のあるものだと受けられたからであった。やがて私は、この鬼の傀儡となっているという事実には気づかず、最早盗みというものが悪であるという事すら忘れてしまい、鬼の言うことがすべて正しいという妄信に陥っていくことすら辞さなかった。最もそれが、私にとって妄信であると気づくことですらだいぶ後の話なのである。
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