開幕

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さてある日、鬼は最も重い罪になるであろうことを私に指示したのである。殺しだ。ここからおよそ一里先に住居を構える山崎惟ノ助という男が、かつて鬼に残虐な磔の刑を押し付けた警官の倅であるというのだが、その三〇年越しの無念、仇をとるために私にその男を殺せというのだ。流石に私は鬼の言葉に耳を疑い、思いとどまった。これまでの盗みは、あくまで空き家、あるいは留守の家が対象であった。何故私がすんなりとそれができたかというと、その盗みによって被害をうけるのは人間そのものであるはずなのに、その姿は思い浮かばれなかったためだ。ネット上で誹謗中傷を簡単に誰でも行えるのと同じごとく、対象が見えない。しかし、殺しはそうではない。自分が殺しているという映像をまじまじと目に焼き付けながらその行為をやり遂げなければならない。私はそこで、何故鬼が直接手を下さないのか、と尋ねた。鬼が語るには、鬼が自身で手を下せば、「殺人事件」の発生ではなく、「鬼の襲撃」という事に焦点が当てられ、つまり「人が殺された」という事実よりも「鬼が出現した」という事実のみ注目されてしまう。すると殺された人間も浮かばれないし、今まで身をやつしてきた他の鬼にまで迷惑をかけてしまう、という事らしい。私は、この時点で鬼の理論と依頼の不当性に早く気付くべきだったのだが、根底には鬼を信頼する土台が固まってしまっていたので、私はこの話に納得してしまった。これを最後に、私は鬼の手中から逃れる機会を完全に失ってしまった。
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