開幕

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ドスン、といやに鈍い感覚が手を襲った。切り裂いた、というより突き刺さり、そして詰まっているような生臭い手ごたえ。「あゝ」と嗚咽ともとれる呻きがその空間の時を止め、私の息をも止めた。その刹那、ようやっと私が殺しをしているという悪行の意識に目覚めさせられてしまう。そうしてこの一瞬の裡に私が殺しに至ったはずの怨念、憎悪を思い出そうと躍起になっていたが、何処にもそれは見つからなかった。指先から手首を伝って、蟲のように這い上がる三筋の血流がさらに私を追い詰めるのには、さほど時間はかからなかった。さらに恐ろしいことに、やはり私は今刺した者が倅か、それとも家内か、見当もつかず、第一誰かすらもわからない。私は、倒れこもうとするその人物にナイフを残したまま、半無意識に満月の元に向かって走り出した。私の足はひどく震え、くすみ、これが自分の全速力かどうかわからないがしかし走った。自分の犯した罪から逃れるためなのか、現実を呑み込めなかったのか、不意に衝動にかられたのか、果たしてわからないがとにかく遠くへ、遠くへ行きたかった。 さて、どのくらい走ったであろうか。私は多摩川上流の、山麓に建っている寺の境内に、気が付いたら駆け込んでいたのである。疲労困憊の最中に感じた嗚咽の血なまぐささに、自分が人間であったという事をようやく自覚し始めた。私は、朦朧とする意識の最中、そこに迫る足音の響きをわずかに認識した。「もし、そこの貴方、大丈夫かな」どうやらこの寺の住職であるらしい。背はそれほど高くなく、痩せこけているが、その人柄の良さは十二分に伝わってきた。「私は、私は人を殺めました。これ以上なく、罪深い人間です。私は、どうしたらよいでしょうか。」私は気が付くと罪のすべてを語り、事のいきさつの 説明に至った。
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