狂気と自己喪失のはざまで

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*修二* かつての記憶さえも、靄がかかったように思い出せなくなっている。 僕は何者だったのだろう。どんな人間だったのか? 記憶喪失ではない。名前も住所も家族のこともわかっている。職場の同僚のことだって。 職業は薬剤師で、趣味はたくさん。小説なんかも書いたりしていた。 なぜか、どうでもいいような日常の物の名前を忘れている。 今朝、爪切りを探していた。爪切りのことはわかるのに、その名前を忘れてしまった。 「ねえ、こうやって、パチンパチンってする のはどこ?」 母に身振りで伝えたら、「ああ、爪切りのこと? 」と言って出してくれたけれど。 なぜこんな簡単な物の名前を忘れてしまったのか。 爪切りに限らず、いつも目にしていて、気にもとめない物の名前が出てこない。 今朝、母から仕事を休むように言われる。 「修二、仕事はしばらく休んで欲しいの。 しっかりとリハビリをしてからにしましょう」 怯えたように、僕の機嫌を窺いながら言う母にいらだちを感じた。 「リハビリって? どんなリハビリ? 僕はそんなに変なのかい?」 目も合わせずに母は、オドオドしながらこう言った。 「ちゃんと調べてもらいましょう。焦ることないわ。時間はかかっても、きっと元に戻れるわよ」 他人ごとのように楽観的なことを言う母を、どやしつけてやりたくなる。
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