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先生はきっと、ピアノは辞めたのか?と聞きたかったんだと思う。でもその言葉を呑み込んだのが分かった。変わらない優しさに胸が締め付けられる。先生はそういう人だった、あの頃から。私からわざわざそれを伝えるのも先生に気を遣わせるだけだと思い、私も口を閉じた。先生との会話はそれで終わり、その後は久しぶりに再会した友人たちとの会話に花を咲かせる。そうしている間に時間は流れ、先生に別れの挨拶すら出来ずに同窓会が終わってしまった。
雨は降り止みそうにない。
駅から家までの距離は約3kmで、今日は金曜日。もし濡れて帰って風邪を引いたとしても、明日明後日は仕事が休み。覚悟を決めて歩き出そうとした時だった。
「────森野?」
どうして、
神様はこんなにも私に意地悪をするの?
『桜井先生...』
「バカ、早く乗れ。雨降ってんのもわかんねぇぐらい酔ってんのかよ」
酔いなんて、先生と再会したときからとっくに覚めてる。少し躊躇ったが、そのまま先生を無視して歩き出す勇気もなく大人しくその言葉に従った。初めて乗る先生の車に胸の高鳴りが抑えられなかった。車内は先生の匂いに包まれていて、当時から着けていたと思われる少し甘くてスパイシーな香りがするコロン。変わらず愛用しているんだと思うだけで、当時の記憶が愛しく思えた。匂いが記憶されるって話は本当だったんだ、なんて思っていると目から零れ落ちる何かが、ポタッ...と私のスカートに染みをつくる。
「おまえんち何処に、......!」
私の様子に気づいた先生が、車を路肩に停めたのがわかった。
「............どうした?」
ごめんなさい、先生。
今日で、最後にするって約束します。
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