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隣人-1
新居は悪くない。大学生活を機に独り暮らしを始めて、実家では得られない解放感を味わっている。
大学まで、歩いて十分。二階建て安アパートの一階、三部屋ある内の真ん中の部屋が僕の部屋だった。日当たりは少し悪くて、真上の二〇二号室の足音が響く。それでも、家の外で遊び歩いたり、授業のコマの無い時はバイトを夜遅くまで入れたりしているので、部屋にあまり寄り付かない生活には特に困らなかった。
最近はバイトを減らしていて、部屋に居ることも多い。だから、足音がよく部屋に響く。それでも僕はあまり気にならなかった。先月、偶然にもお隣さん……一〇三号室の人と知り合ったのだ。
可愛いというより、綺麗なタイプだった。正直に言って、どうしてこんな安アパートに住んでいるのか分からない。そんな環境でも、凛々しい立ち姿や凛とした雰囲気を纏って部屋から出て駅へ行く姿をたまたま見かけた時から、ずっと彼女のことが気になって仕方がなくなってしまった。
朝、バイトも講義も無いのに出勤時間を合わせて同時に玄関の扉を開け、「よくご一緒しますね」なんて声を掛けたりした。彼女の帰宅時間を見計らって、わざと自分の部屋の前に落とし物をして届けさせるようなこともした。
ドアポストに投函された郵便物や封筒を確認しようとしたけれど、彼女の部屋にそうしたものが投函されたことが無い。或いは、あってもすぐに取ってしまうのかもしれない。
職場に挨拶に行ければと思って、一緒についていったこともある。勿論、彼女の迷惑にならないよう、距離は十分に開けて。けれどいつも彼女の都会慣れした歩き方のせいだろうか、人混みや駅で見失ってしまう。
気付かれているのかな、と思うこともあったけれど、顔を合わせれば彼女は変わらず微笑みながら挨拶をしてくれる。素敵な、大人の女性だ。
早く名前を知りたい。期待と焦燥が混ざりながら、その日は部屋で漫画を読み、ダラダラと無気力に過ごしていた。丁度、泥棒が窓を割ってこっそり民家へ侵入するシーンに熱中していた時である。
どんどん、と頭上の二〇二号室から、また音がした。時刻は午後二時を回った頃で、夏場でも特に暑い時間帯だ。僕は、不快指数の高まった部屋の中で苛立っていた。上の部屋の住民も、学生だろうか。いつものことだと無視しようとしたが、残暑のせいかやけに腹が立ち、音が気になる。
どんどん、という音は続いた。十分も続いた頃には流石に我慢が出来なくなり、僕は定規を手にして天井を強く二度突く。そうすると、二階からの足音は止んだ。
やれやれ、と漫画を読み直そうとした、その時だった。
バアン!
隣……一〇一号室から、壁を強く叩く乱暴な音がした。びくりと体を震わせ、僕は音のした壁を見つめ、硬直してしまう。
隣にもこの時間に人が居たのか? だが、天井を叩く音が隣人を苛立たせるほど大きく響いたとは思えない。それならば、僕よりも長く足音を立て続けていた上階の男が斜め下の部屋にも伝わっているはずだ。決定打が僕の一撃だっただけだろうか。
怒りよりも困惑が湧いた僕はそれ以上何も出来なかった。
音も、その日はそれ以上響くことはなかった。
翌朝、今日も僕はお隣さんに合わせてドアを開ける。あまりにタイミングの重なる日が続くと不審がられてしまうので、これは数日おきに行っている僕の大切な彼女とのコミュニケーションである。
が、この日は二日連続である。せっかくなので、一〇一号室の隣人を利用させてもらうことにした。
こんにちは、といつものように朗らかに挨拶をして、僕は微笑む彼女に小声で話し掛ける。
「一〇一の人なんですけど、もしかしたら気を付けた方がいいかも知れませんよ」
「え?」
「昨日、僕講義が無かったので一日中引きこもってたんですけど、買い物に出掛ける時たまたま出くわして。目付きとか姿勢とか、とにかくなんか陰気で……ちょっと危ないかも」
見たことも無い住民の容姿を一方的にこき下ろすが、彼女を怯えさせるには必要なことだ。実際、一〇一の住民は今まで一度も姿を見たことが無い。少しくらい情報を盛っても構わないだろう。
だから何かあったら僕を頼ってくださいね。そう彼女に言うつもりだった。
けれど一〇一号室の方から彼女に視線を戻した時、一瞬、彼女の表情にギョッとした。
口元は、いつものように微笑んでいる。何十回と見た、右の口角を上げる微笑みだ。
けれど、その目は死んだような色をしていた。まるで笑っていない。
一瞬の表情だった。すぐに彼女はいつもの微笑みを取り戻し、「ありがとう」とだけ言って、そのまま駅へと向かってしまった。
別の日の夜、また天井からの足音が響き始めた。枕元の時計を確認すると、午前二時を回った頃である。
何でまた、こんな夜に動き回っているんだ。トイレか。イライラしながら、タイマーで止まってしまっていた扇風機のボタンを押して、また入眠しようとする。だが、足音は止まなかった。
とん、とん、とん……
一定のリズムで、不規則な感覚を置きながら足跡は続く。
僕は、怒りよりも徐々に不安、そして恐怖を覚え始めた。
時計を確認する。午前二時三十分。
三十分も、何故上階の住民は部屋を歩き回っているのだ?
残暑の暑さではない、気持ちの悪い汗が体を這いまわる。タオルケットを体に巻き付けて、僕は体を縮こまらせた。
そんな僕をあざ笑うように一度だけ、一〇一号室から一度だけ、バアン! と壁を叩く音がして、止んだ。
次の夜も、その次の夜も、二〇二の住民は夜中に一時間ほど部屋を歩き回り、一〇一からは壁を叩く音がした。
怒ってこちらも壁や天井を叩いてやるという手もあったが、刺激したくない。かといって、管理会社にいちいち連絡をして、住民の生活音如きで腹を立てる器量の小さい男と思われるのも癪だった。僕にだって、男としてのプライドはある。
そうしてどうしようかと悩み、迷っている内に今日も足音が始まる。僕はそっと部屋を出て、自分の部屋のドアを背にしてその場に座り込んだ。それからどうするでもなく、ただぼんやりと目の前にある植え込みの木を眺めた。
どれくらい経ったか。二〇三号室の扉が開く音がする。振り返ると、お隣さんがジャージ姿で立っていた。
「どうしたの、こんな時間に」
「いやあ、その」
手短に説明すると、ああ、と納得したように呟いてペットボトルに口をつけ、水を飲む。伸びる白い喉元に、失礼ながらも興奮してしまった。少しだけ不安と緊張が和らぐ。
「管理会社に言えば?」
「そう……ですね……そちらの部屋には、音は響かないんですか」
「全然。その部屋だけじゃない?」
言って、夜風に当たりに来たという彼女と数分だけ沈黙の時間を共有する。何か話せばよかっただろうに、僕はいざとなると緊張して何も言えなくなってしまった。
チャンスじゃないか? そう思って何度か口を開こうとしたけれど、何故かあの日見た、死んだ目をした彼女の微笑みが脳裏に何度も蘇る。天井を歩く足音と共に。
バアン、と遠くで壁を叩く音がした。これで今日も、階上の足音は止むだろう。一息つくと同時に、お隣さんは部屋に戻ってしまった。
「またね」
顔には、いつもの柔らかい微笑みを浮かべていた。
僕も戻ろう、と自室の扉に手を掛けたところで、ふと気付いた。
一〇一号室同様、一〇三号室は二〇二号室の斜め下に位置する。彼女の部屋で何も聞こえないということは当然、一〇一号室の住民も足音は聞こえていないはずだ。
けれど一〇一号室の隣人は、二〇二号室の足音に怒っているみたいに壁を叩いた。
僕が騒音など立てるわけがない。恐ろしくてじっとしていたのだから。
ならば、一〇一号室の住民は何に反応していたのだろう?
僕は震えながら、ゆっくりとドアを開け、部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。闇の中に目が慣れていくにつれ、僅かな月明かりにジワリと浮かび上がる自分の部屋が、誰か別人が住む部屋のように思えた。
ゆっくり、一歩ずつ僕は一〇一号室側の壁へと足を運ぶ。体が震えているのが分かった。
一体、隣人はどんな人間なのだろう?
アパートのベランダ側は、皆鎧戸を締めてしまっていて、部屋の中が確認出来ない。無精者の僕ですら、換気の為に時々窓を開けているというのに、隣人はその様子も無い。女性である一〇三号室の人ならまだしも……
僕は、壁に手を付き、耳を当てる。越してきて四カ月以上が経つが、一度もその姿を見たことのない隣人。聞こえるはずのない音を聴いている隣人。
一体、どんな……
「盗み聞きしやがって……」
壁の向こうから、声が聞こえた。地の底から聞こえてくるような、暗い、恨めし気な声だった。
悲鳴も上げられなかった。呼吸が止まり、僕はただ心臓を鷲掴みにされるような恐怖を味わい、その場に尻もちをつく。腰が抜けたまま壁から離れ、冷や汗をだらだらと流しながら、部屋の中央で体を震わせた。
その時、止んでいた二〇二号室からの足音が再開する。今度は歩き回るような音ではない。まるで子供が跳ねまわるような、ドタドタバタバタという騒がしい、複数人の足音だ。
畳に落ちる埃から逃げるように、僕は布団まで後ずさる。それを合図にしたように、ケラケラという下卑た笑い声と共に、一〇一号室からまた壁をバンバンと叩く音が始まった。
僕は携帯を握り締め、他の取るものも取りあえず、急いで部屋から逃げ出した。
未明に転がり込んできた僕を迷惑そうに迎えてくれた友人に感謝し、朝一番で管理会社に電話を入れた。恥だプライドだなどとは、もう言っていられなかった。
「二〇二号室の人と、一〇一号室の人! そう、迷惑なんですよ! 毎晩毎晩、騒音ですよあれは!」
『落ち着いてください。あの……本当に二〇二号室と、一〇一号室から音がしたんですか?』
困惑している様子の声に、僕は苛立ちを抑えきれない。
「そうですよ! 昨晩の大騒ぎなら、一〇三の人だって流石に聞こえてます! 一緒に立ち会ってもらうなり証言してもらうなり……!」
『いえ、あの、落ち着いて聞いてください』
管理会社の窓口係が、まるで重病患者に病状を説明するような台詞を口にする。そうして、息を呑む気配をさせてから、続けた。
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