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「ただいま」
返ってくる筈のない戯言。元より返答を求めてすらいない一言。ただそれだけのために約二千分の一時間ほどを消費して、ただひたすらに浪費して。
幼少期から続けてきたその習慣で、一体どれだけの時間を無為にしてきたのかと考えつつ、履きなれていないせいか、未だ硬い革靴を脱ぐ。
これは父が内定祝いとして贈ってくれたものであったが、それが職場の皆様に複雑な心境をもたらすとは露と知らぬあの頃の僕。もし過去に戻れるならしばき倒して、「おい、考え直せ」と言いたい。
……それでもまあ、宝の持ち腐れとは言うので、週に一、二度は磨いて使っている。
――都会と呼ばれる地域から少し外れた、いわゆる都市郊外にあたる地区の一端に位置する、僕が現在住んでいるマンション。
月八万程度の家賃と、真っ暗な廊下を歩く必要があるくらいに切迫した光熱費やその他諸々。
立て付けが悪いと管理人さんにクレームを入れたら、修理業者の連絡先をもらったのが三週間ほど前。諸事情により未だ直っていない扉を、僕は力尽くで開け放った。
――贅沢は言いません。それが必然であるならば。ああ神よ、そんな敬虔な我らに余裕をご教示ください――
なんて、最初に敬虔の意味を説かれそうなくらいに無信徒な僕ですら神に懺悔したくなるほどに拮抗した収支表を以て、これでもかと睨みを利かす冷蔵庫が横目に見える。
「……はぁ」
羽織っていたジャケットをハンガーにかける過程で、思わず口から漏れ出た一つの嘆息。
だからと言って、『ため息を吐くと……』なんて説いてくるお節介な隣人も居ないので、それは空気を重くするのみであった。
「明日は日曜日……か」
休日返上? 上等!
冗談抜きでそれが社風なんじゃないかと疑うレベルで高い土曜の出社率。それのせいで最近曜日感覚がおかしくなってきたが、今日に限って言えば完全に把握していた。
特に楽しみという訳ではないが、ある意味で峠となる日を翌日に控えているからだった。
「今日の夕飯は何に……」
冷蔵庫の中身を確認しようと歩き出したが、日頃の疲れが祟って途中で倒れ伏してしまった僕。その目の前には、中程度の収容スペースを誇る本棚が。
大衆心理に促されて購入した手前、結局一読すらすることのなかった背表紙ども。その中に紛れることすら忘れてやけに目立つ一つの冊子が、僕の疲れ目に入った。
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